第22話 龍然さまは知っている

 朱実は龍然の神殿を見渡した。柱の向こうで魚が泳ぐのが見えた。空からさす光が反射して銀色のキラキラした塊があちらこちらに見える。あんなに小さな泉の底が、まさかこんなに広いなんて想像していなかった。


「なんて綺麗な青なの」


 三人の神が話している間、朱実は迷惑にならないよう少し離れて外の様子を見ていた。ぷくぷくと昇っていく泡が目の前にあり、その奥にはくぐってきた赤い鳥居が見えた。朱実は興味のままに腕を伸ばしてみる。指先にひんやりとした温度と水に触れた時の感覚がした。


「ひゃっ。み、水だった……。でも、どうしてこちらに流れ込んで来ないの? 見えない壁? でもそうだったら水には触れないはずよね」

「あまり結界に触れられると、困るのですが」

「えっ、あっ、すみません。えっと、あなたは龍然さまの神使、乱蛇丸さん」

「興味津々にうろうろして、怪我でもされるとわたしが叱られます」

「本当に、ごめんなさい」


 朱実は見た目は少年の乱蛇丸に注意されてしまう。罰が悪くて俯く朱実に、乱蛇丸はツンとした表情で、盆に乗せた飲み物を朱実に差し出した。


「これは?」

「客人は丁寧にもてなせと、主人が。念のため、お酒ではありません」

「ありがとう。いただきます」


 シャンパングラスを手に取ると、小さな気泡がシュワシュワと上がっていて、それはまるでソーダのようだ。朱実は一口飲み込んだ。


「あ……、おいしい。これ、とてもおいしいです」


 微炭酸でほんのり甘みのあるフルーティなソーダ水だ。喉に心地よく、一度口にしたらなぜか止められなかった。朱実はソーダ水を一気に飲み干してしまったのだ。

 それを見た乱蛇丸はなんでもない顔で、朱実が飲み干したグラスを盆に戻した。朱実は頬をうっすらとピンク色に染めて、うっとりとしている。


(はぁ……。なんだか、ほわほわしてるぅ)


 そして、朱実はとうとう体を支えきれなくなったのか、座り込んで床に手をついた。


(おかしい。お酒じゃないって、言っていたのに)


 視界もぼんやりとしてきて、なんだかおかしい。泰然を呼ぼうと声を出そうとしたが、熱い息を吐くだけで声にならない。焦れば焦るほど景色は歪み、体に力が入らなくなっていく。


「少し、お部屋で休みましょう」


 そんな朱実に声をかけたのは乱蛇丸だった。朱実を片手で引き起こすと、なにかの呪文を唱えた。次の瞬間、景色が大きく歪んで朱実の意識は遠のいた。


 ◇


 朱実は不確かな思考の中で、早く目覚めなければいけないともがいた。何度もこれに似た状況に陥ったことはあるが、その中でも今回は嫌な予感が働いていたのだ。

 朱実は薄れゆく意識の中で、乱蛇丸の目が細く笑み口元からは人の顔立ちから現れてはいけない蛇の舌がチロチロと蠢くのを見た。

 よくないことが起きる、そう思った。


(起きないと! 早く、起きて! わたしの体! 目を、開けて!)


「う……、ううんっ」


 起きろ起きろと唱えてどれくらい時間を要したか、朱実はなんとか目を開けることに成功した。


「はっ、あ、開いた」

「ふむ。なかなか意志の強い娘だ」


 朱実が目を開けて一番に見たのは泰然ではなく、乱蛇丸でもない。麗しい艶のある唇を小さく動かした龍然であった。近くで見れば見るほど彼の美しさは増してゆく。

 透明感のある肌、切長な瞳、長いまつ毛、目の下にうっすらとホクロがあって、それがまたたまらなく色っぽい。


「あ……」


 言葉にならないのである。


「あの水を飲んで、自らの意志で目覚めるのはなかなかの胆力があるということだ。なるほど、泰然が嫁にするだけはある。しかしわたしは認めてはおらぬ。人間が神と添い遂げるとは許し難い。人間ごときに神の寿命を決められてはたまったものではないぞ」


 それを聞いて朱実はあわててベッドから体を起こした。


「あ、あのっ、龍然さま。これはいったい」

「娘」

「ひあっ」


 起き上がった朱実に紺青色の狩衣を翻した龍然が覆いかぶさる勢いで隣に座った。この神、出会ったときから距離が近いのだ。そして扇子の先で朱実の顎を持ち上げた。朱実は扇子で口を封じられてしまうのが嫌で体を後ろに引こうとした。しかしそれは叶わなかった。龍然が背中に腕を回していたからだ。


(えっ、ちょっと。どうしてこんなことに)


「顔立ちは悪くはない。が、嫁にするほどの魅力は感じられぬのだ......。なるほど、その裸体に隠された魅力があるのか」


 顎に添えていた扇子が今度は朱実の服の胸元を開く。


「やめてください!」

「ふん。それほどのものでもなさそうだな。泰然はなにゆえこの娘に執心なのだ。解せぬ」

「失礼すぎます!」

「待て、娘。まだ契っておらぬのか。まあそうであろう。泰然も命は惜しいというわけだ」

「なんなんですか。契るとか契らないとか、あなた方には関係のないことです。それに泰然さまは私と同じ時間を生きるとおっしゃってくださいました。それでよいと」


 朱実がそういうと龍然の瞳に鋭い光が宿った。ただでさえ冷たそうな表情が一層に増して、冷酷さの極みのような視線を朱実に向けた。


「蒼然が舞衣子に求婚をしたとき、舞衣子は拒絶をした。理由がわかるか、娘」

「母が風師さまから結婚を申し込まれていたのは本当だったのね。でも母には父がいたから無理だったのよ」

「いいや、舞衣子は幼いころからずっと事あるごとに蒼然から求婚され、十二の年にそれを受け入れた。十九になったら結婚をすると約束をしたのだ。しかし、十九になった舞衣子はその約束を反故にした。人間の男と結婚することを決めたからだ」

「約束を破った......」

「そうだ。神との約束を破るほどの理由が舞衣子にはあったのだ」

「それは、なに」


 突然、朱実は嗅いだことのない香りに包まれた。とてつもなく甘い香りに清涼感が混じったとてもいい香りだ。泰然の沈丁花とも轟然の梔子とも、母から香った金木犀とも違う花の香り。不思議と焦りや不安が消えていく。

 それは龍然が放つ蝋梅の香りである。それは鎮静、精神の安定作用、空気の浄化作用があるといわれている。


「娘、ゆっくりと話そうではないか」

「泰然さまが心配します」

「案ずることはない。泰然は今ごろわたしに化けた乱蛇丸と蒼然の行方のことを話している。轟然も気づいておらぬ。素直で清い心はときに馬鹿をみるものだ」

「神様同士でそんな」

「舞衣子の話に戻ろうではないか。そして人間に祓われてしまった哀れな蒼然という秋の神の話を」


 龍然の淡々とした声は朱実の心を刺した。母の風師への裏切りと、父の風師への仕打ちを思うと心が痛んでしまうのだ。

 龍然は泰然はもとより、轟然も知らないことを知っている。その口ぶりに嘘は感じられなかった。


「教えてください。母と風師さまの物語を」


 龍然は返事の代わりに長い睫毛をゆっくりと瞬かせ、うっすらと微笑んだ。

 息が詰まるほどの蝋梅の香りがあたり一面に充満した。

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