第20話 二人ですごす初めての夜に

 神殿から新居に帰ってきた朱実と泰然は、何を話すでもなくリビングのソファーに座った。朱実にいたっては落ち着きがなく、辺りをキョロキョロと見回してしまう。そして耐えられなくなって立ちあがろうとした。


「泰然さま、お茶を淹れますね」


 しかし、それを泰然が静かに制した。


「お茶はもうよい。やっと二人きりになれたのだ。このままベッドとやらで休もうではないか」

「そ、そ、そうですね。じゃあお風呂に」

「風呂は先刻入ったであろう」

「あはは。そういえば入りましたね。わたしったら忘れっぽいから」

「朱実」

「はい」


 泰然は朱実の頬に手のひらでそっと触れ、親指の腹で優しく目尻を撫でた。くすぐったいのか朱実は目を細める。泰然は朱実のその仕草があまりにも可愛らしく思え、思わず自分の胸に引き寄せた。


「あの、泰然さま?」

「困った娘だ。優しくしたいとは思っている。が、少し自信がなくなってきた」

「えっ、何の自信ですか」


 朱実にすっとんきょうな声で聞き返されて、泰然はくすりと笑ってしまった。泰然から見た朱実は男女の事情など何も知らないといったふうで、初々しくもあり憎らしくもあった。神は試されている。そんな気分になった。


「試してみるか」

「ため、す?」

「行くぞ」

「きゃっ、泰然さま。わたし、自分で歩きますから」


 泰然は素早く朱実の膝下に手を差し込んで抱え上げた。ジタバタする朱実に構うことなく立ち上がり、寝室に向かった。

 一方、どこに向かっているのかを察した朱実は途端におとなしくなった。泰然の首に腕を回して落ちないように、その行先を見つめる。さすがの朱実もそこまで無知ではないのだ。

 入籍も終わり、二人は夫婦となった。夫婦になって初めて過ごす夜を初夜という。改めてそう思うと、期待と緊張が複雑に交差するのだ。

 朱実はベッドに向かう泰然の横顔を盗み見た。いつものポーカーフェイスのはずなのに、いつもと違う何かを感じる。そして、舞い上がる二人の沈丁花の香り。


(泰然さまと、とうとう――!)


 泰然はゆっくりと朱実を抱いたままベッドに腰を下ろした。泰然は頬を赤く染めた朱実を眺めて、微笑んだ。その笑みのなんと穏やかなことか。朱実は泰然のその柔らかな微笑みに心を鷲掴みにされた気分だった。


(泰然さまの優しい微笑み! 貴重!)

「朱実。よいな?」

「――はい」


 朱実はゆっくりと目を閉じた。


(泰然さまとなら怖くない。大丈夫)


「朱実」

「んっ」


 泰然の気配が朱実を包み込んだ。初めて会ったときは命の危機を感じたのに、もうあのような恐怖はない。いま、朱実を包み込むものはどんな事からも守ってくれる強くて優しい気配しかない。

 泰然の唇が朱実の唇に重なり、やがて自然と開いた隙間から探るような仕草で舌が入ってきた。途端、朱実は身体の奥底で何かが弾けるような感覚を味わう。


「大丈夫か」

「はい。大丈夫、です」


 寝室中にはむせ返るほどの沈丁花の香りが漂う。誰にも邪魔されない夫婦の時間の始まりだ。

 二人はゆっくりとベッドに横になった。

 今夜、朱実は泰然と夫婦の契りを交わす。


(泰然さま。優しくして、くださいね)

(案ずるな)


 すると、

 ―― ピン、ポーン……


「「…………?」」


 ―― ピン、ポーン……


「泰然さま。誰か来ました」

「気にするな。もう夜だぞ。応答しなければ、明日出直すだろう」

「そうですよね、きっと」


 ―― ピン、ポーン……ピン、ポーン


 聞こえないふりをしても聞こえてくるインターフォンの音。こんな夜更けに失礼極まりないと泰然は片手を上げた。そう、神の力を発動させようとしたのだ。

 目を閉じことばを唱えようとした泰然は眉間に深い溝を刻み舌打ちをした。


「チッ」

「えっ」


 朱実は泰然が不機嫌だと分かるような態度をとったのを見たのは初めてで、その悪い雰囲気に驚いた。


「こんな夜更けに堂々と正面からやってくるとは……。ああ、まったく」

「どなたか分かるのですか?」

「朱実、すまない。一旦、中断する」

「あっ、はい」


 お互いにその気になっていたので少し気まずい。しかし、朱実には無視して続行するほどの度胸はない。むしろ、少しづつ冷静になっていく自分に驚きつつ泰然の不機嫌な背中を見送りながら、自分も身なりを整えた。


(いったい誰だろう。夜に訪ねてくるくらいだもの、急ぎのことかもしれない)


 朱実は髪を後ろで一つにまとめると、泰然のあとを追った。妻としてサポートしなければいけないと思ったからだ。


「泰然さま、どちらさま……。えっ」

「娘! 息災であったか!」

「轟然さま!」

「覚えておったか! 綿姫が会いたがっておるぞ。ガハハハ」


 玄関に立つのは鳴神の轟然だったのだ。豪快に笑う轟然のそばで頭を抱えて肩を落とす泰然がいた。

 深いため息をつきながら泰然は顔をあげ、轟然を睨んだ。


「こんな夜更けに失礼であろう。ここは私たちの新たな住処だ。しかも今夜は……っ、もうよい。して、何の用でここまで訪ねてきた。マサ吉にことずけておけばよいであろう。とにかく出直してもらう。帰ってくれ」

「おお、怖い怖い。さては間の悪い時に来てしまったようだな。グハハハハ!」

「強制的に追い返すことも可能だが?」


 不穏な空気に朱実は慌てて二人の間に割って入った。


「泰然さま、落ち着いてください。わざわざ来られたのですから、きっと急ぎの用事なのかもしれません。それに……」


 そして朱実はゴニョゴニョと泰然に聞こえるだけの小さな声でこう続けた。


「今おかえりいただいても、気になって、その、続きなんてできませんから」

「なっ。むう」


 泰然は整った眉毛を激しく歪めた。朱実の気持ちが何より大事である。泰然は込み上げる苛立ちを抑えて、しぶしぶ轟然を客間に通した。

 朱実がお茶を淹れようと立ち上がったとき、轟然が話を始めた。


乱蛇丸らんじゃまるが私の宮殿にやってきてな」

「乱蛇丸とは確か、龍然の神使であったな」

「いかにも! 水伯が動き出したのだ」


 朱実は足を止めてつい口を挟んでしまう。


「水伯、さま?」


 一般的には水の神で知られる水神だ。龍然は同時にこの町の冬を守る神である。


「うむ。水神のことだ。前に朱実から鎮守の杜の案内をしてもらったのだが覚えているかな」

「はい。雷に打たれた木の話とか、子猫が迷い込んでいたこと。それから美味しい湧水の話なんかもしましたよね」

「そうだ。雷に打たれた木は轟然が降りてきた場所であり、同時にそこが依代なのだ。子猫は神使の綿姫。それから湧水が出る泉は龍然が依代としている。ときどき現れていた白蛇こそがその龍然の神使である乱蛇丸だ。朱実が好きな鎮守の杜には昔から彼らが住んでいた」

「えっ! そうだったんですか! ということは風師様も鎮守の杜のどこかに」


 朱実がそういうと、轟然が口を開いた。


「それがなぁ、形跡はあれど姿はなし」

「そんな」

「しかしあの面倒くさがりの龍然が使いを出してきたのだ。なにか知っているのかもしれぬぞ」

「轟然、新婚の夜を邪魔してでも知らせたかった事がそれなのだな」

「なんと! どうりで機嫌が悪いと思ったのだ! それは申し訳ないことをしたな。娘、すまぬ! これ以上の邪魔はせぬから、存分に楽しむといい! ぐははは」


 轟然は大きな声でそう言うと、煙の如く朱実の前から消えてしまった。豪快な笑い声だけを余韻のように残して行った。泰然は右手で空を何度か斬ると、申し訳なさそうに振り返った。


「デリカシーのない神で申し訳ない。念のため、結界を強化した」

「ふふっ。十人十色と言いますから、神様も神様の数だけいろいろな性格があるのでしょうね。結婚したのが泰然さまでよかったです」


 朱実がそういうと、泰然は口元を綻ばせる。


「そうか」

「はい」


 しん、と静まり返った部屋。少しだけ気まずさを感じてしまう。でも、泰然はお構いなしに朱実の手をとった。


「多田羅の神が動き出したとなれば、わたしも本腰を入れねばなるまい。朱実、風師を探したいのだろう?」

「はい。できることならば」

「うむ。わかった」

「泰然さま」

「うん?」

「わたしも一緒に連れて行ってください。一人でがんばらないでくださいね。わたしには何の力もありませんけど、わたしはあなたの妻ですから」

「承知している」


 泰然はそのまま朱実を腕の中に引き寄せて、可愛らしい頬にキスをした。何の力もないという朱実だが、泰然は知っている。


(朱実だから、皆が動くのだ)


「まずは水伯あらため、龍然を訪ねてみるか」

「はい!」


 こうして初めて二人で過ごす夜は、手を繋いで朝を迎えるだけとなったのであった。

 「轟然めが」と、恨んだところで結果は同じだった可能性もある。泰然は朱実の寝顔を見ながらこれからの事を考えた。

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