第19話 みんなで幸せになろう
泰然が言った新婚夫婦に気をつかえという言葉に、朱実はひとりそわそわしていた。
この人となら幸せになれる。この人となら大好きな多田羅の町を守っていける。そう思って結婚した。それなのに、肝心なことを失念していたのだ。
新婚夫婦が初めて迎える夜。すなわち初夜。
「待って待って、待って! どうしよう。わたし、何にも考えてなかった」
泰然に自らキスをしておきながらこの有様である。
新居のダイニングテーブルに座って落ち着かない気持ちを吐き出す。泰然は神殿で執務をするといい夕方まで不在である。
「わたし、ちゃんとできるかしら。よく考えたらキスしかしたことないのよ。もちろんそのキスも泰然さまが初めてよ。ぜんぶ初めてなのよ……。やだぁ、ちょっとくらい勉強しておくべきだった。恋愛、しておくべきだった。どうしよう。ああん、どんな顔をしたらいいの〜」
とうとう朱実はテーブルに突っ伏した。突っ伏しながらもこもった声で不安を吐き出す。
「泰然さまにお任せするしかないのだけれど。まさか泰然さまも初めてとかじゃないよねぇ。神様だもの、その手のことも上手くしてくれそうだよね。だって、お花の印をつける時なんて手練れみたいだったのよ。ねえ、手練れってなによ卑猥。やーだー。きっと痛いよね? 初めは痛いってみんな言ってた。ちゃんと聞いておけばよかったなぁ」
ちょっとしたパニックだった。泰然のことは好きだし、キスよりも先のことをして欲しいと思っている。でも、それが目の前に迫ると戸惑いの方が大きくなるのはなぜだろう。
「優しくしてくださいって、言えばいいのかしら。泰然さまはとても優しいから言わなくてもきっと大丈夫だと思う。ううん、だめよ。ちゃんと言わなくちゃ」
朱実はテーブルから顔を上げて椅子から立ち上がった。そして、こう言う。
「泰然さま。わたし初めてですから、優しくしてくださいね」
よし、これでいい。お茶でも飲もうかと振り向いた瞬間、朱実は夢であって欲しいと願うはめになる。
なんと朱実の背後に泰然が立っていたからだ。
「たたたた、泰然さま――っ」
「うむ。今、もどった」
いつもと変わらない何を考えているのか分からない、例のポーカーフェイスで泰然はそう言った。
朱実はというと、それ以上なにも言えずただ口をぱくぱくしながら立っているのが精一杯である。
(泰然さまはいつからそこに? もしかして全部聞かれていたの? ねえ、嘘よね!)
心の中では大慌て。
もしも聞かれていたならば、恥ずかしくて居た堪れない。
「どうした朱実。なにかしようとしていたのではないのか? もう少ししたら神殿に上がるぞ。マサ吉とお加代が張り切っていた」
「あ、ええ。そうですよね。お茶でも飲んで一息ついたら行きましょう」
「うむ」
(聞いてなかったみたい? よ、よかった……)
聞かれていなかったみたいと安堵して朱実はキッチンに向かった。まだドキドキする心臓を右手で押さえながら。
その頃、朱実の背中を見ながら赤面するのは泰然だ。思わず顔を片手で覆った。
本当は初めから朱実のひとりごとを聞いていたのだ。
◇
朱実と泰然は夕刻、マサ吉とお加代が待つ神前に上がった。前と違うのは念じれば自宅のリビングからドアをスライドするだけでたどり着くことだ。
朱実は神殿へ続くドアを開けるのを何度かチャレンジしたが、どうしてもふかふか布団のある寝室の扉しか開けられなかった。
「朱実はよほどこの部屋が気に入ったようだな。もうここに膳を運ばせようか」
「違う、違うんです。ほら、多分わたしこのお部屋しかよく知らないんです。だから……、そのっ」
恥ずかしくて仕方がない。決して頭の中がそういうことでいっぱいなわけではないと、朱実は心の中で叫んだ。
「そういうところが、可愛らしいと思う」
「へ? あ、もう! 心の声聞こえちゃってるぅぅ」
真顔で泰然に可愛らしいと言われ、さらに悶絶する羽目になった。
「朱実さま、お待ちしておりました〜。お風呂にしますか、それともお食事を先になさいます?」
「お加代さんっ、その聞き方なんだか変です」
「人間の世界ではご主人様にはそう聞くのではないですか? さあ、選んでくださいまし朱実さま」
神使のお加代は尻尾をふりながら朱実にそう言った。松乃家の仲間からそう聞いたのだろう。するとマサ吉がお加代をたしなめた。
「おい、お加代。それは新婚夫婦のセリフではないか。おまえがしゃしゃり出て言葉を奪ってどうするのだ。朱実さまが帰宅された泰然様に言うのだぞ。まったく無知は困る」
「なんだって⁉︎ そうなのですか? 朱実さま」
「もぉぉお! わたしに聞かないでぇー」
朱実は両手で顔を隠して首を横に振った。隠された顔は照れと恥ずかしさで真っ赤になっている。
ずっと黙って見ていた泰然は朱実の隠れていない耳を人差し指で突いた。
「耳まで赤くなっているな」
「いーやー!」
恥ずかしさは頂点に達し、朱実はその場にかがみ込んでしまう。
(もう皆んなで寄ってたかって、やめてよぅ。めちゃくちゃ恥ずかしいんだからー)
泰然はもとより、二人の神使はそんな朱実を好ましく思っているので、冷静なマサ吉でさえ尻尾を振るのを止められなかった。
「朱実さまが選べないならお加代が全て段取りいたします。よいですよね? 泰然様」
「うむ。お加代に任せる。朱実、今夜は客人として世話になりなさい。明日からは朱実もここの家の主人だ」
「わたしが、主人……」
泰然はこくりと頷いて朱実の頭をそっと撫でた。神の妻となったのだから、この神殿は朱実が守らなければならないのだ。
「ご主人様。お風呂でお身体を温めてからお食事にしましょうね」
「あの、わたし! わからないことだらけですけど、神社のことも町のことも、そして皆さんのことも守って行けるようにがんばります! だから、これからもいろいろと教えてください」
朱実の突然の決意に、マサ吉もお加代も驚きを隠せなかった。朱実は神の世界を受け入れて、町も彼らも守りたいと言ったのだ。
「「朱実さま……」」
人は神の御加護を賜るだけではないという証である。
◇
「マサ吉さん、美味しいです」
「ありがとうございます」
広すぎる広間で、朱実と泰然そして二人の神使が向かい合うようにして食事をしている。
朱実の強い希望で、みんなの顔が見えるような状態で食べたいと言ったからだ。
それに対して泰然は反対しなかった。朱実もこの神殿の主人であると言ったのは、そういうことを含めてのことなのだろう。
しかし、なかなかこの状態になれないマサ吉は少し居心地が悪そうだ。
「それにしても、なかなか慣れませんな」
お加代は嬉しさのあまり食事中も尻尾は忙しく揺れている。
「マサ吉だって嬉しいんだろう? 理解ある泰然さまの神使で幸せじゃないの」
「不幸だなんて一度も思ったことはない。加えて朱実さまも気立てが良く……」
もにょもにょと言葉が尻窄みになったのは、照れ隠しだ。
「わたしも、泰然様に拾っていただいて本当に幸せです。神使契約を結んでもらえて、どうお礼を申し上げたら」
すると、黙々と食べていた泰然が箸を置いた。
「お加代、もうよい。風師が見つかれば、お加代は風師のもとに帰るのだ。それまでの措置である。わたしとの契約は完全ではない。その証拠にお加代は力が封じられたままであろう」
「あ……、はい」
「風師がまだ存在しているからだ。風師はおまえを捨てたように思うだろうが、神使契約は破棄していない」
朱実はお加代は本当は風師のそばに仕えたいのだと思った。いつも明るくおどけて振る舞うのは、泰然との契約が未完であることよりも、突然消えた風師を案じ寂しさを隠すためなのかもしれないと。
「お加代さん! わたしが風師さまを探します。だから、待っていて」
「朱実さま。ありがとうございます」
どうやったら風師を探せるのかわからないけれど、鳴神の轟然も現れたのだ。神たちと力を合わせればなんとかなると、朱実は信じている。
「さて朱実、そろそろ帰るか」
「そうですね。マサ吉さん、お加代さんごちそうさまでした」
「今夜は新しいご新居で?」
「邪魔をするなよ」
「ちょっと! 泰然さまっ、なにいって!」
あはは、とみんなに笑顔が戻った。朱実だけが茹蛸のように真っ赤だ。でもこれでいいと朱実は思う。
(みんなで幸せになろうね!)
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