第18話 夫婦になりました

「では参ろうか」と言って泰然は襖を開けた。朱実がたびたび休ませてもらっている寝室の襖だ。

 少しだけ眩い光が差し込んだと思ったら、目の前にはどこかの家のリビングが広がっていた。


「えっ! ここが?」


 襖の反対側は今時の木彫のスライドドア。一歩足を踏み込むと、テレビで見るようなモデルルームのリビングがある。振り返ると先ほどまで朱実が居た神殿の和室だ。

 朱実は何度も振り返って、両方の部屋を見比べた。


「泰然さま! 何が何だか!」

「うむ。とりあえずリビングとやらにあるソファーに座って話すとしよう」


 朱実は泰然に手を引かれリビングに入った。革張りのとても質の良いソファーに腰を下ろす。


「あれ! 消えてる! 泰然さまのふかふか布団のお部屋が――消えっ……ええぇぇ」


 朱実は確かに泰然の寝室からこのリビングに入ってきた。しかし、開けたままのスライドドアの向こうはウォークインクローゼットになっている。

 すぐに朱実は立ち上がり、至る所のドアや窓を開けてみた。

 システムキッチン、バスルーム、トイレ、書斎、ベッドが置かれた寝室、二階に続く階段を上がると部屋が二つ。玄関の外は住宅街、窓から見た景色は多田羅の町が広がっていた。


「瞬間移動的な?」

「簡単に説明すると、この家と神殿は繋がっているのだ。念ずればいつでも神木の上の神殿とを往来できる。この家を依代にしたというわけだ。その方が朱実の生活を大きく変える必要はない。父上や氏子たち、それに友人が訪ねてきても対処できる」

「すごい。念じたらあのお部屋に行けるのね。それって、わたしでもできることなの?」

「もちろんだ。やってごらん」

「うん」


 朱実はまず深呼吸をした。そして、泰然の神殿を思い浮かべる。暖かな光のさす畳の良い匂いがするあの場所を頭の中に思い浮かべた。

 そして、スライドドアをゆっくりと開く。


「わぁー! 見て、泰然さま! 泰然さまのふかふかのお布団です」

「朱実はその部屋が好きだな。別に寝室でなくともよいのだぞ」

「そっか。お風呂でも、お台所でもいいんだ。お加代さんやマサ吉さんともいつでも会えますね」


 朱実がそう言うと、泰然は朱実を後ろから抱きしめた。そして、耳元で囁く。


「ここの家に邪魔者は入ることができない。わたしと朱実だけの新しい家だ。悪しきものは玄関より内側には入れぬよう結界を張ってある。夫婦水いらずの甘い時間が過ごせるのだ。素晴らしいだろう?」

「泰然さま……」


 朱実は思いもよらぬ甘えた声を出してしまう。抱きすくめられて、どちらのものとも分からぬ沈丁花の香りが広がった。衣が擦れる音がして、朱実はそっと目を閉じた。

 すると、泰然の唇が頬に触れた。


(きっと、そのまま唇を……)


「さて、朱実。父上に知らせて越してくる準備をしよう。結婚の儀は神社の神事が落ち着いたころを見計らって行えばいい。大国主のふだも届いただろうしな」

「もぅ、泰然さまっ」


 朱実は振り返って泰然を見上げた。その顔は少し、不満げだ。


「どうした朱実。不服そうだな」

「だって、あんなにいい雰囲気だったのに。ほっぺにちゅだけだなんて」

「朱実?」


 泰然に伝わらなかったことがもどかしく思い、朱実は泰然の両腕を支えにしてつま先立ちをした。そして、何事かと首を傾げる泰然の唇を大胆にも奪ってみせたのだ。


「――⁉︎」


 泰然は思わぬ出来事に息を呑んだ。

 ゆっくりと近づく唇に目を奪われた。やがて、桃色の艶がある小さな唇が弧を描きながら離れていく。


「忙しくなりますね! お引越しでしょ? それから結婚式。その前に泰然さまのお洋服も買わないと。お仕事中は白衣びゃくえ差袴」さしこでよいでしょうけど、プライベートで街に出ることもあるでしょう? 泰然さまならなんでも似合いそう」


 照れ隠しにたくさん話す朱実と、驚きと感動とで一言も発することができない泰然。

 女性の方がそういった面では急速に成長するのかもしれない。


「そうだ泰然さま、今回のようなことがあったら困るのでスマホのアプリ、その他もろもろを教えてください」

「ああ、これだ」


 泰然は朱実に言われるがままスマートフォンを差し出した。朱実は手際よく番号やメッセージアプリを操作して、泰然のスマートフォンと繋げることに成功した。


「泰然さま。セキュリティーが甘いですよ。個人情報、神様情報はしっかりと守らなきゃ。そうだ! お顔認証しましょう。ホーム画面、なにかいい画像ないかなぁ」

「朱実……」


 ついこの間まで朱実に警戒されていたのに、今はこんなに距離を詰めてくる。そんな朱実に泰然は驚きつつも、喜びを隠せない。


(いいものだな……)


 泰然は相変わらずの表情だが、心の中では大いに照れていた。



 ◇



 朱実と泰然は無事に新居に越してきた。もともと家具はひと通り揃っていたので、朱実の身の回りのものを運ぶだけの小さな引越しだった。

 念じれば御神木の上の神殿にいつでも移動できるので、泰然が神としての執務をするのも影響はない。

 普段は朱実と共に多田羅神社に通い、神職として働く。そして時間が許せば多田羅神社の次期宮司として、朱実の父親が泰然に少しずつ引継ぎをしていた。


「泰然さん、朱実。入籍おめでとう」

「ありがとうございます」

「今日明日はゆっくりしなさい。朱実もずっと忙しかっただろう?」

「ありがとう、お父さん!」


 入籍だけは先にした。二人がそろってそのことを報告をすると、父親は嬉しそうに祝いの言葉を二人に送った。これからは夫婦として、多田羅町を守っていくことになる。

 報告を終えると二人は新居に戻った。


 それはそうと朱実は泰然がどこからともなく戸籍抄本などの書類を揃え、滞りなく役所が受理したことに驚いた。受理されないのはとても困るが、神である泰然が戸籍を持っていたことは信じがたかった。しかし、そこはもう敢えて聞かないことにした。


(だって、神様だもん。如何様にでもできるっていうだけだし、わたしが聞いたって分からないカラクリよね)


 泰然は婿入りしたので、賢木泰然になった。


「泰然さま? ちなみに旧姓ってお持ちだったのですか?」

「いや。だが、聞かれることがあったら神木かみきと名乗るつもりでいた」

「神木から賢木……? あまり変わり映えしませんでしたね」

「うむ。しかし、わたしにとって姓はそれほど重要ではないのだ。朱実との婚姻に支障が出なければなんでもよい」

「本当に神様って不思議です」


 そんなやりとりをしていると、泰然の神使であるマサ吉とお加代が現れた。神出鬼没は泰然だけではないのだ。


「泰然様」

「朱実さまー」


 入籍の祝いに夜は神殿で祝いの膳を出すという。マサ吉が腕によりを振るったというので、断るわけにはいかない。


「わぁ。ありがとうございます。今夜が楽しみです」

「温泉もご準備しておきますね」

「わたし、あの温泉大好きです」

「まったくお前たちは、朱実のことが好きなのは分かるが新婚夫婦に少しは気をつかうものではないのか」


 泰然が呆れたようにそう言うと、マサ吉は丸いお腹を突き出してこう言った。


「もちろん、お食事の後はお引き止めいたしません。邪魔が入らぬよう結界を張り巡らせておりますので、夜はお二人きりでどうぞ」


 さも承知していると言わんばかりの返答に、朱実は赤面した。


「ちょっと、マサ吉さん!」


 それを見たお加代は手を口に当てクスクスと笑う。


「まぁ、朱実さまったらお照れになってかわいい」

「お加代さんまで!」


 とはいえ朱実は、祝福されることはとても幸せなことだと思った。神と人間の婚姻という異色の組合せということを忘れそうになるくらい朱実は自然と受け入れていた。


「では、泰然様。のちほど」

「うむ」

「朱実さま、手ぶらでいらしてくださいね」

「は、はい」


 二人に背を向けたマサ吉とお加代は、どちらも隠し忘れた尻尾をぶんぶんと振り回していた。

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