第17話 神様の嫉妬

「ううーんっ」


 とてもよく寝た。

 朱実はここがどこであるかも考えずに、布団から起き上がると大きく伸びをした。


「体がスッキリしているわ。わたし、我慢できずに轟然さまのお部屋で寝ちゃったのよね。早く帰らないと」

「轟然さま、か」

「はい、ごうぜん……、泰然さま!」


 朱実が目を覚ました部屋は泰然の部屋で、目の前にはむすっとした無愛想な顔の泰然が座っている。胡座をかいて頬杖まで付いているので、せっかくのイケメンが頬を歪めて台無しだ。


「あれ? わたしいつの間に泰然さまの神殿に戻ってきたのかしら。綿姫は? そういえば疲れすぎて寝落ちしちゃって、何も言わないままだったわ。それはそうと泰然さま、もしかして怒ってます?」


 朱実は布団から這い出して不満げな泰然の顔を覗き込んだ。すると泰然は朱実から顔をぷいと逸らしてしまう。


「どうして泰然さまがご機嫌斜めなんですか? わたし、ずっと御神木の下から泰然さまを呼んでいたんですよ。応答してくれなかったのは泰然さまです。待っても返事はないし、お忙しいのだろうと森を散歩していたら鳴神の轟然さまに連れていかれたんです。怖かったんですからね!」


 ことの経緯を説明しているうちに苛立ちを覚えて、今度は朱実がぷいと顔を逸らした。

 朱実の怒った口調に泰然は我にかえり慌てて振り向いた。


「あ、朱実、その」

「わたしは何も悪いことなんてしていません。知らない神様の神殿で神使さんのお仕事を手伝ったんです。どうして泰然さまはあのとき返事をくれなかったの? スマホなんてなくても、いつでも通じ合えるって言っていたのに」


 金髪の厳つい反社会的な風貌の男に攫われたのだから、怒りたいのは朱実の方だ。


(だからスマホの連絡先を教えてほしかったのに!)


「本当に怖かったんです」

「すまなかった。これは、わたしの落ち度だ。許してはくれないか」


 泰然は今にも泣きそうな朱実を引き寄せて、背中を優しくさすりながら何度も詫びた。朱実から香る沈丁花は恐ろしく濃い。こんなにも自分を求めていたのに、すぐに対応できなかったことが悔やまれた。


「泰然さま。でも、もう大丈夫です。轟然さまは悪い神様ではありませんでしたから。それに、猫の綿姫もかわいらしかったし」

「本当に悪かったと思っている。朱実が今日来るとは思わず、出雲の国に出かけてしまった」

「出張だったのですか? 前もって言ってくれたらよかったのに」

「うむ、そうだな。ほんの半日だからと怠ったわたしが悪い」

「半日って、行って用を済ませて帰ってくるのに半日ですか? ここから、島根県までの道のりを?」


 朱実のその問いに泰然はさも当たり前だと言うように、首を縦に振った。


「ここから出雲市まで半日以上はかかるのに?」

「わたしたち神に距離という概念はない。相手から拒否されない限りは念じればすぐに目的の場所に到達できる。実は朱実が轟然に接触したのにもすぐに気づいた。しかし、轟然はそんなわたしに対して結界を張った」

「それって、泰然さまは轟然さまに拒否されたということですか?」

「そうだ。無理やり破ることもできぬこともないが、それをすると多田羅に害が及ぶ。それに、轟然は朱実に乱暴なことはしないと信じていた」

「だったらどうして機嫌が悪かったんですか」

「それは」


 泰然は罰が悪そうに朱実の顔を見て、それから不自然に視線をそらした。なぜか耳がほんのり赤くなっている。しかも、言おうか言うまいかと唇が小さく動き迷っているのだ。


「泰然さま?」

「朱実はわたしの知らないところで、疲れて眠るほど何をしたのか。轟然にどんな顔を見せたのか。轟然の神殿でどう過ごしたのか。想像しただけで腹が立った」

「まさか、それって」

「朱実はわたしだけのものなのにと、嫉妬した」

「しっと」


 泰然は朱実にそう打ち明けると、再び朱実を引き寄せ抱きしめた。さっきよりもうんと強い力だ。それは朱実の頬が泰然の狩衣で擦れるほどであった。


「朱実。神の嫉妬もまた、恐ろしいものだぞ。人のそれよりも遥かに――」

「泰然さま」


 泰然は朱実を抱き寄せたまま、朱実のシャツをたくしあげ直にその手で肌に触れた。泰然の手のひらが朱実の背中を這い上がる。突然のその感触に朱実は驚いて体を硬くした。泰然は乱暴な動きこそしないが、その手つきはなんとも卑猥である。


「あ、あのっ」


 朱実はなんとか顔を上げて泰然を見た。すると泰然は朱実と視線を合わせるとすぐに顔を近づけてきて、朱実の唇を己の唇で塞いだのだ。

 何も言わせないつもりなのだろう。

 背中を這っていた手のひらはしだいに下へと降りてきて、とうとう臀部へと指先が伸びた。擽ったいような感覚が朱実を襲う。


「んっ、んん」


 泰然は朱実を離すまいと口づけをどんどん深いものへと変えた。口内を蠢く泰然の舌、ときどき聞こえる濡れた音に朱実の中に嫌悪感とは違う感情が芽生えた。


(泰然さまぁ……)


 吐息が熱いものへと変わっていく。

 朱実の心の声に艶を感じ取った泰然は、そのまま布団に押し倒した。朱実の長い黒髪が白い敷布に広がる。

 二人の視線が重なると、泰然の瞳はより濃い青い色へと変化した。


「朱実」


 このまま己のものにしてしまえばいい。そうすれば他の神からちょっかいを出されることはない。身も心も己の香りで縛ってしまえばいい。

 部屋中に沈丁花の香りが広がった。それは誰も近づけないほどの濃い香りだ。

 朱実の瞳はとろんとしている。まるでその香りに酔わされたように。


「泰然さま。泰然、さま」


 朱実は泰然の名を寝言のように繰り返しながら、自分の腕を泰然の首に絡ませて耳元で囁いた。


「はぁ……。あつい、泰然さま」


 今度は朱実自らゆっくりとシャツの裾を捲り上げる。その下にはピンクのレースのかわいらしいランジェリーがちらりと見えた。

 神の力ならば人の心も動きも如何様にもできるものだ。嫉妬に駆られた泰然は知らぬ間に朱実を操ってしまったのだろうか。


「朱実、わたしが悪かった」


 泰然は朱実の胸元に口付けると、朱実の身なりを整える。いつのまにか朱実は眠ってしまった。泰然は一線を越えるところを、なんとか踏ん張ったのだ。


「ああ……、わたしはいったい何をやっているのだ。嫉妬など、恥じるべき行為ではないか」


 泰然は深いため息をついて項垂れた。嫉妬に任せ自ら放った沈丁花の香りで、危うく朱実を同意なく抱くところだった。

 泰然さまと呼ぶ朱実の甘い声はたまらなく、泰然の体の中心部を刺激したのは言うまでもない。いくら神とはいえ愛おしい女性の甘い懇願には勝てないものだ。今回ばかりは危なかったと泰然は深呼吸をした。


(情けない――)


 ◇


 それからしばらくして


「ふわぁぁ。よく寝たぁ。あっ、泰然さま!」

「うむ。朱実は本当によく寝ていた。疲れは取れたのか」

「はい! あれ、泰然さまの神殿ですね」

「轟然の神殿からわたしが連れ帰った。不在にしていてすまない。働かされたのであろう?」

「はい。猫の神使さんが、あまりにも可愛くてつい手伝ってしまいました。泰然さまはどこに行っていたんですか」


 泰然は少しだけ朱実の記憶を修正した。嫉妬に駆られた醜い自分は朱実を怖がらせてしまうと思ったからだ。


「出雲の国だ。祝言のお礼と来月の神在月かみありつきに全国の神が集うのだが、今年も多田羅からは参加できない旨を大国主に伝えてきたところだ」

「え、そんな大事な会議が! 大丈夫なんですか」

「その代わり、来年は四季の神と共に来るようにと約束をさせられた」

「それって、泰然さまと轟然さまと、風師さまと水伯さま4人揃ってということ?」

「いかにも。早く風師を探さねばならない。しかし、朱実はもうすでに轟然に会った。水伯が現れるのも時間の問題だろう」

「そうしたら、風師さまを探せるのでしょうか」


 母との間に起きたこと、父が風師を祓ってしまったことを思うと胸が苦しくなる。

 泰然は思い詰める朱実の肩にそっと手を乗せた。


「朱実がそんな難しい顔をする必要はない。困難は二人で乗り越え解決するものだ。夫婦になるのだからな」

「夫婦だなんて、照れちゃいますね。うふふ。あ! お家、借りたんですよね。この神殿はどうするんですか」

「ああ、そうだったな。二人の住処だ、気に入ってもらえるといいのだが」

「二人の……。やだ、その言い方は恥ずかしいです」


 朱実は両手で顔を隠した。

 朱実の顔は真っ赤で、その顔を隠すように覆う手もほんのりと赤い。


「朱実は恥ずかしいことばかりだな」


 朱実の喜怒哀楽の表し方が泰然の心を揺さぶる。泰然は朱実のころころ変わる表情を見ているとあらゆるものから救われる気がした。


(人は神の想像を簡単に超えるものなのだな)


「では、朱実。二人の新しい家を案内しようか」

「はい!」


 風師のことは泰然にとって頭の痛い問題であることは間違いない。しかし、突然鳴神の轟然が現れた。風の流れが変わり始めたことを泰然は感じ取っていた。

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