第12話 多田羅の狐
「泰然さんとの狐の舞を、お願いしよう」
「いいの? 翁の舞じゃなくて」
「ああ。多田羅町の町民も朱実の舞を見たいと思っているからね。町民が望む大祭をしなければ神様に申し訳が立たない。わたしも朱実の美しい舞をみんなに見せてあげたいと思っている」
大祭まであと数日というところで、父柊二は朱実にそう告げた。悩みに悩んだ結論だったのだろう。父は朱実に笑顔を見せるが、その瞳の奥は泣いているようにも見えた。
「朱実。今年の大祭はこれまでのものとは違う。わたしは変わらなければならない。朱実が町のために頑張っているんだから、わたしもしっかりしないと宮司失格だろ?」
「お父さん」
「さあ、忙しいぞ? 泰然さんにもよろしく伝えておいてくれ」
「うん。お父さんありがとう」
「泰然さんと、結婚するのかい?」
「それは……まずは大祭を成功させてからよ。彼もそう言ってくれてるの」
「そうか。朱実の人生なんだから、神社のことは抜きでしっかりと考えるんだよ。後悔のないように」
「はい」
父が言う、後悔のないようにという言葉を重く感じたのは気のせいではないだろう。
―― 泰然さま! 狐の舞、一緒にできますよ! お父さんが許可してくれました!
心の中でそう告げる。
―― そうか。よかったな。
「えっ、すごい」
心のこもった言葉は口に出さなくとも泰然には通じるようだ。
人々が神社を訪れ手を合わせながら、祈り願うことは全て神に通じている。朱実はそう確信した。
そして、秋の大祭の前日。
「おばさま、こんな感じでいいでしょうか」
「どれどれ。まあいい色じゃない。お味は……美味しいんじゃないの? 朱実ちゃん! お料理、やればできるじゃない」
「ありがとうございます! よかった。多田羅町の新米で作ったいなり寿司なら、神様もきっと喜びます」
朱実は旅館松乃家で、松永夫人にいなり寿司の作り方を教えてもらっていた。
多田羅米のランクが
「わたしたちが美味しくないなんて言ったらだめよねぇ。朱実ちゃんがいうように、これが今の多田羅米だって知ってもらう必要があるわよね」
「ようですよ。心を込めて作ったものですから、ランクなんて関係ないです」
「そうね。その通りだわ。うちの旅館も多田羅米をもっと前面にださないとね。そして目指せ特Aよ!」
目指すのは最高ランクの特Aだと、女将の松永は言う。そういう気持ちがこの町には欠けていたのかもしれない。天気のせい、後継者がいないせい。全部そう言ったマイナス思考に引っ張られていたのだ。
「朱実ちゃん! 明日の大祭、楽しみにしてるわよ!」
「ありがとうございます」
◇
いよいよ秋の大祭当日となった。
朝早くから社務所内は忙しい。氏子さんたちも忙しく動き回るし、神社の参道では出店が仕込みの最中だ。
朱実は朝のお勤めを終えると、控えの間で準備を始めた。朱実は今日初めて多田羅の狐になる。
「泰然さま、ちゃんと来るよね? じゃないとわたし、本当に困るんだけど」
時間は待ってはくれない。先ずは、狐の化粧だ。
朱実はスマートフォンから母舞衣子の写真を出した。アルバムにたった一枚だけ入っていた、狐の化粧をした母の写真だ。それをこっそりスマートフォンで写した。隣にいるのは氏子たちだろうか。みんな嬉しそうに笑っている。父はカメラを構えていたのでこの中にはいない。きっと父柊二も笑っているはずだ。
朱実は母の顔をタップして拡大した。
「お母さん、きれい」
まずは顔から胸元まで白粉を塗って、眉を描いた。薄い茶色でぼかしながら引き、眉頭に紅を薄く乗せる。眉尻は長くなりすぎないように、目尻のところで止める。
今度は黒のアイラインを目の周りにしっかりと引く。綿棒を使って線をなぞるようにぼかす。それから赤いシャドウを瞼に乗せていく。濃淡をつけるのはとても難しいけれど、自分の顔と母の顔を何度も見ながら調整した。
赤いラインは狐の面に寄せるように、線をしっかり引いて瞳の周りを柔らかくぼかす。
(ふう……失敗しないように、丁寧に)
緊張して震える指を反対の手で支えながら、眉間に稲穂を模した絵を入れた。
最後に真っ赤な紅を唇に乗せ、和紙を喰む。
母の美しさには敵わないが、なんとかそれらしい狐になった。
「よし!」
今度は衣装だ。
白の襦袢の上に深紅の着物を重ねる。それから緋色の袴を履いて、真っ白な汗杉をその上から着た。赤い飾り紐を丁寧に結んで、最後に鏡の前に立った。
襦袢の上に重ねて着た深紅の着物は遊女が男を誘うときに身につけると誰かが言った。
それは単なるイメージに過ぎない。着物の色を重ねて少しだけ見える赤がとてもお洒落だったからだ。それが人の目をひいただけ。
神に祈りを捧げる狐も、この日はとびきりのお洒落をして、神の目をひかなければならない。
「うん。大丈夫。ちゃんとお狐様になってる。あとは、この稲穂の髪飾りを後ろに挿すだけっと……あっ」
手を頭の後ろに回したところで、それを何者かが取り上げてしまった。
「わたしが挿そう」
「泰然さま!」
いつ現れるのかと気にしながら準備をしていたら、まさに泰然は神出鬼没である。泰然は鏡に写る朱実をじっと見た。
「ほぅ、これは椎ノ宮の狐ではないな。多田羅の狐か?」
「はい。母の若い頃の写真を見て化粧しました。たぶん、ちゃんと多田羅の狐になっていると思います」
「うむ。ではもう一筆加えるか。筆を借りるぞ」
「えっ、なにを」
「動かないように、仕上げだ」
泰然は朱実の右のこめかみから頬の近くに筆を走らせた。何を描いているのだろうか。
しかし朱実はそれどころではなかった。泰然の顔が息がかかるほどすぐそばにあって、心臓がドクドクと煩くなっている。
(ああんもう! こんなに近くに泰然さまのイケメンが! しかも今日は
泰然の匂いを感じながら鏡に写る自分たちを横目で見ると、顔が熱くなるのが分かった。つい、目を固く閉じてしまう。
「朱実。動かないようにと言ったであろう。もう少しだから我慢しなさい」
「ごめんなさい」
「ほうら、できた。鏡を見てごらん。これで朱実はわたしのものだ」
朱実は泰然に言われるがままに鏡を覗いた。
朱実の頬には見事な模様が入っている。
「これ……花の紋様? あっ、泰然さまの花っ」
「これで隠り世の鬼も手出しはできまい。
「すごいこれ、かわいい」
朱実は小さい頃に父親から言われていた。暗くなると隠り世の鬼が連れにくると。そんなことはもう心配しなくていいと泰然は言っているのだろう。
ふと朱実は隣に立つ泰然の装束に目が行った。いつもの狩衣ではないのだ。
「では、参るか」
「まって! 泰然さま」
「なんだ」
「今日のその、お衣装は」
「これか。秋の祭だからな、不本意ながら風師の秋の色を纏っている」
いつもの狩衣とは違い、泰然が着ていたのは真っ白な狩衣に紫色の刺繍が入った高貴溢れるかっこうだった。
この白は秋を守る風師の色、
「とはいえ、匂いは沈丁花だがな」
「さすがにそれは変えられないですよね。でも、泰然さま」
「まだ何かあるのか」
「あの、そのっ。白い狩衣も、とっ、とても……っ」
「うん?」
なぜだろう。朱実の顔は熱を持ったように赤くなってしまった。せっかくの白粉がピンク色に染まってしまう。
「だからっ! とてもよくお似合いですよ! さあ、参りましょう。みなさんお待ちでしょうから」
「まて、朱実」
「うわあっ」
泰然は自分に似合っていると吐き捨てて、何もなかったかのように外に出ようとした朱実の手を引き止めた。そして、腰を抱き寄せて自分の体に密着させる。
「た、泰然さま」
「朱実はわたしを褒めたのか?」
「そ、そうです……けど」
朱実がそういうと泰然の顔がゆっくりと近づいてきた。
「朱実もとても美しいぞ」
「ひあっ」
朱実は泰然に耳もとで低い良い声で囁かれて腰が抜けそうになった。しかし、腰を支えられているので倒れる心配はない。
(その不意打ちはダメだよぅ)
「そうだ。褒美のいなり寿司はできたのか?」
「はい。多田羅米で作りましたよ」
多田羅米だと言うと、泰然はうんと頷いた。それを見た朱実は地元のお米を使ってよかったと思った。
「お時間でございます」
「はい! すぐに行きます」
神職である
「では参るとしよう。朱実、面を」
「はい。つけましょうね」
泰然と朱実は狐の面をつける。朱実が見た泰然のその横顔は、すこし笑っているように見えた。
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