スタート

 1組目の1年と3年の合同の組が全員、各々の全力を出し切り完走をし、次の光たちの組へと回る。

 

 選手たちは緊張で顔を強張らせ、走る前にも額に脂汗を流す中、御影のみが飄々とした表情だった。

 全国大会を経験した光でさえ、如何なる場面でも少しは緊張するが、御影にはそれが感じられなかった。

 

 御影は幼少の頃から陸上に身を投げ、数多くの大会を経験している。

 故に、慣れていると言えるのだろうか、今更緊張するたまではない。

 本番に近い選抜テストでも、御影にとっては練習も本番も差して変らない。

 ただ、己の全力を込めて走るのみ。


 そんな、目の前の走りに全集中する御影の横顔を眺め、改めて光は彼女を尊敬する。

 光が陸上を始めて間もない頃、自分と同い年で凄い選手がいると雑誌で見た以来、憧れていた選手。

 一度、中学時代に全国大会で競い合ったが、高校に入ってからの彼女の本気の走りを光は見ていない。

 選手は成長し続ける。練習を重ねた御影の実力が中学の頃で止まっている訳がない。

 

 そんな御影に勝てるのかという不安。

 憧れであった御影ともう一度走れる喜び。

 そして、様々な理由が交わり、絶対に彼女に負ける訳にはいかないという闘志が光の緊張を塗りつぶす。

 

 深く息を吸い込み、体内に酸素を取り込んだ光は、スタンディングスタートの構えを取って、スタートの合図を待つ。

 陸上の合図に「よーい」はない。

 スターターを任されたマネージャーの号砲が合図となる。

 

 選手のみならず、会場全体が静寂に包まれる中——————競技場に号砲が響く。


「————————ッ!?」


 号砲と共に選手たちが一斉にスタートした瞬間に皆は驚愕する。

 

 100mなどの短距離の場合はスタートからゴールまで全力疾走をするのは当然だ。

 だが、1500などの中距離以上の場合は開始当初はペース配分の関係で軽めに走るのが殆どで、ラストスパートに差し掛かってから全力で走る。


 だが、それはあくまでセオリーであって必ずではない。

 

 中には序盤から速めのスピードで後続との距離を空け、終盤で後続からの追い込みを防ぐ戦法もある。

 

————御影はその戦法を取ったのだ。


 御影クラスの走力は並の選手を凌駕する。

 御影にとって7割でも、他の選手からすれば9割の走力はある。

 しかも幼少期からの特訓で体力も脅威だ。

 人間の全力疾走の限界は約8秒前後と言われるが、御影なら後続と大きく引き離す程度の距離は走り切るだろう。

 

 選手が全員が全員、御影の予想だにしなかった先行を取る走りに体が硬直する中。

 ただ1人だけ、先行する御影に追走する者がいた。


「…………流石、一度失望したものの、私が好敵手と認めた選手ですね、渡口さん!」


「あなたならこれぐらいの事はすると思ってたから、別に驚かないよ!」


 1秒、1.5秒と徐々に他の選手を引き離す光と御影。

 

「病み上がりの足で私に付いて来た事は称賛します。ですが、いつまで持ちますかね!」


「持つよ……持たすよ! 負けるつもりなんて微塵もないから!」


 光にとって他の人と並んで走る事は1年ぶりである。

 だから気合が入り、負けじと御影と走足を合わせて走る。

 御影の速さは普通の選手を凌ぐが、それに追いつく光は同等の才能と脚力を有している事になる。

 

「(……本当に、去年に足を怪我して引退した人の足ですか、それ。けど、見れば見る程に、鍛えているのが分かります。影で、相当な努力はしていたのでしょう……。ですが、私も負けないぐらいに努力していたんですよ!)」


 御影は元来、負けず嫌いで並走されることを嫌う。

 それに加え、去年に過剰練習オーバーワークで一時陸上から離脱した光となれば、御影のプライドは刺激され、御影は自分のペースを狂わされ、スピードを上げる。

 

「まだ……だよ!」


 しかし負けずと光も追走する。

 光はこれまでの経験で得た勘から、御影に引き離されればこの後追い付けないと悟る。

 

 6人参加した1500mだが、300m経過した時点で、光と御影の独走状態。

 残り4人の後続とは3秒以上の差がこの時点で生じている。

 

 この段階でこの組は実質、光と御影の対決。

 会場は沸き立ち、2人を発破をかける檄が飛び交う。

 

 幼少期から幾度も大舞台に参加をして、多くの栄光を勝ち取った天才、晴峰御影。

 怪我をして1年以上のブランクがあるにも関わらず、それを物ともしない程の走りを見せる、渡口光。

 2人の実力は全国レベル。

 観客の陸上に僅かでも精通してる者なら知っている。中学時代の2人の全国大会での走りを。

  

 その時の熱狂を。その時の感動を。その時の歓喜を。

 どちらが勝っても可笑しくなかった、あの熱い走りを今、2人の走りが思い出させる。

 

 400mを通過、500mを通過して、未だに2人は並走状態。

 正確に言えば、僅差で光が後ろだが、僅かな隙でも追い抜かれる程の差しかない。

 序盤より若干速度は下がったが、それでも後続とは距離が開く程度。2人の体力は少しだけ呼吸が荒くなっているだけでまだまだ余力はある。


「(称賛しますよ、渡口さん。正直、最初は貴方は私の敵ではないと決めつけてました。貴方は怪我をして、1年も表舞台に立てなかった。その間にも私は、貴方との再戦を願って日々の練習に取り組んでいた。だから、私は貴方には負けないと、勝手に自負していました……。ですが、認めましょう。貴方は私以上の天才だって!)」


 一度怪我をした選手が全盛期の実力に戻るだけでも途方もない努力が必要だ。

 その上、戻している間にライバルは成長をして差を広げて来る。それに負けない為には更なる努力をしないといけない。だが……殆どの選手は実力を戻すだけでも精一杯で脱落する。

 もし、それらを全て成し遂げられる選手がいるなら、それは本当の意味で才能がある者だけだろう。


 だから御影は認める。

 一度怪我をして引退した光が、再起して自分の前に立ち、自分と張り合う程の力を付けていることを。

 自分以上の才能があり、それに怠けずに陰ながらに努力していたことを。

 だが、


「(私は負ける訳にはいかないんですよ! 陸上も、恋も! 貴方だけには!)」


 御影は最後まで体力が持つのかさえも考えてない程にスピードを僅かに上げる。

 御影は初めてだった。自分のペースをここまで狂わされたのは。自分がここまで意固地になって引き離しに入ろうとしている。

 御影は仮にこの後の県大会、全国大会のどれかで敗退しようがどうでもいい。

 だが、この自分が認めた好敵手の光にだけは負けたくない。それは陸上選手としての誇りと同時に、同じ男性に恋をした者同士、彼の前で敗けたくないという乙女の意地である。


「(………やっぱり凄いや、晴峰さん。私、もの凄く頑張ってるのに追い越すどころか、並んで走るのでギリギリだよ。本当に尊敬するよ、流石、私が憧れた人だ。そうなるまでどんなに努力していたのか、想像もできない)」


 陸上を始めた頃から光は幾度も御影の走りをテレビや雑誌で見て来た。

 録画した大会での御影の走りを何度も反復で見返し、御影の走りを真似た事もある。

 結局御影の走りを模倣は出来なかったが、その努力あって自分の走りを見つけ、努力を重ねて、いつの日か全国でもトップレベルの選手に成長した。誰かが言った。渡口光は天才だと。


 違う。

 光は一度も自分を天才だと思った事はない。確かに、周りよりも多少才能があっただろう。 

 しかし、御影の才能よりも遠く及ばない。御影こそが本当の天才とだと思っている。

 だが、御影が才能だけでない事も理解している。

 服やシューズで隠れているが、その肌には彼女の努力の結晶が刻まれているだろう。

 才能だけに頼らず、沢山の努力を重ねて、他者を寄せ付けない程の実力を得たのだ。


「(多分……いや、絶対に、私が貴方に勝つなんて100戦して1勝かもしれない。その1勝を中学時代まえに使ってしまった。けど、それでも負ける訳にはいかない! 私にとってこの試合が、最後になるかもしれないんだから!)」


 憧れの選手と競える喜びを光は感じている。

 それがどれだけ大きな壁だとしても、光は体当たりでぶつかる。


 だが、光が陸上を続けたのは、御影との再戦もあるだろうが、恐らく、それ以上に光を突き動かすもの。

 観客席から光と御影の戦いを観ている、太陽カレの存在。

 太陽に褒められたい。太陽にカッコイイ姿を見せたい。

 陸上を始める切っ掛けを作ってくれた太陽に感謝を込めて、光はこれまで頑張って来た。


 だが、光にとって、此度の試合が最後となる。

 足の怪我が原因ではない。怪我の方は光が治療に専念すれば大学に入る前には完治する。

 先にも言ったが、光が陸上を続ける理由は太陽の存在が大きい。

 太陽が観てくれるからこそ、光はこれまでどんな辛い練習も耐えきってきた。


 恐らくだが、光が太陽と同じ学校、同じ地元に居られるのは高校まで。

 光は高校を卒業した後、県外の大学に進学すると決めている。

 だから、太陽が自分の試合を観に来る可能性があるのは高校まで。


 偶然か必然か、光は殆ど諦めかけていた。

 太陽は自分の試合を観に来るとは思ってなかった。だが、今日、彼はこの会場に来ている。

 憧れの人との再戦、そして、最後を飾ろうとした試合に太陽がいる。


 なら、敗けるわけにはいかない。


「(自分が最後と決めた試合で、太陽の前で、敗けた姿を見せるわけにはいかない! 勝つ! 絶対に勝つんだ! 踏ん張れ私!)」

 

 光はハイペースで痛いぐらいに鼓動する肺の痛みを喰いしばって押さえ、御影に食らいつく。


 試合は半分を経過していた。

 その段階では序盤から変わり映えのしない、光と御影が2人で後続を引き離す走りをしている。

 

「(よし。まだ行ける。何度もシミュレーションして来たんだ。このペースだと最後の100mが踏ん張りどころ!)」


 光は御影との再戦を決めた時から、幾度も頭の中でイメージトレーニングを行って来た。

 何メートルの所でどれくらいの速さで、どれだけ御影と距離が離れてなければいけるか。

 そう考えない日は無かった。そして、そのイメージが功を成して、今も御影と接戦している。

 この調子なら最終局面ラストスパートが決め処だと光は予想した——————が、現実は非情だった。


 ズキッ


「………………………え?」


 光の右足に激痛と言う電流が迸る。

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