賭け

 光の参加に動揺を隠しきれないままに選抜テストは開始される。


 1500m組は2組に分かれて競技が行われる。

 光は2組目の方で出走する事で、一旦トラック内で待機をする。

 1組目は3年と1年の混合。3年と1年の合わせた数と2年の数は一緒だからこの組み合わせらしい。

 

 光は兜の緒ではないが気持ちを引き締める為にシューズの紐をギュッと結びをきつくする。

 3年と1年は目の前の競技に意識を向けたからか光への視線はないが、後組の2年の疑惑の視線がチクチクと光を刺していた。

 多分、光になんて声を掛ければいいのか分からないのだろう。

 光も他の選手になんて声を掛ければいいのか分からず、気まずいままに地面を見下ろしていると。

 

「驚きましたよ……いや、薄々そうではないかと思ってましたが、ここに来たのはわざわざ激励を言いに来たわけではないですよね?」


 その空気をものともせずに光に声を掛けたのは、光の好敵手であり、光が無理をしてでも選抜テストに参加する事にした、晴峰御影だった。

 屈んでいた光は、靴紐をギュッと強く締めなおすと、視線を御影と同じ高さに上げる。


「勿論です、晴峰さん。激励の為にここに来たんじゃない。私は走る為にここに来たんだから」


 光の曇りがない真摯な瞳に御影は微笑して。


「そうですか。けど、大丈夫なんですか? 足の方は」


「心配ありがとう。けど、大丈夫。足の方は絶好調だから」


 淡々とした会話だが2人の間で威圧な空気が押し合っている。

 光と御影以外の選手は2人の会話を傍観しているだけで脂汗が滲み出ていた。

 

「それにしても光さん。なんでこの選抜テストに参加する気になったんですか? 前に貴方と話した時は、てっきり選手としては諦めているみたいな感じでしたが?」


「そうだね。そう思われても無理はないよ。私も貴方に怪我の事を打ち明けるまでは、遅くても3年の頃でも良いと思っていた。けど、そうだね。もし理由を挙げるなら—————貴方と交わした約束を果たす為、って言えば、気持ちを上げてくれるかな?」


 光の微笑みは戦意に満ちていた。

 中学3年の頃の全国大会の後、御影が光に僅差で準優勝した時、御影が間接的であるが再戦を約束した。

 高校に上がったらもう一度競い合いたいと単純であるが、2人には大きな約束。


「……やっぱり、前のは忘れた演技でしたか……。最高です!」


 御影は唯一認めた好敵手の言葉に高揚を抑えきれないとばかりに闘志に満ちた表情をし。


「正直病み上がりで物足りないと思いますが、私は獅子の様にどんな兎でも全力で勝ちに行きます。後で病み上がりだからと言い訳しないでくださいね!」


「勿論。私を舐めないでほしいな。私は勝つつもりのない戦いはしない主義だから。足元を掬われない様に注意していてね」


 戦友の様に互いの激励を送り合う光と御影。

 2人が気持ちを高め合っていると、パン、と3年と1年の組のスタートの合図が鳴る。

 それが合図に観客からは声援が飛び交う。選手は各々、今持てる自分の実力を最大に引き出そうと歯を喰いしばって足を前に出す。

 

 光も1500mで最も鬼門になるのが御影であっても、他の選手全員もライバルである。

 御影以外の選手を下に見ず、洞察力を深めて選手を観察する。

 トラックを走る選手を眺めていると、光は観客席の”彼”の姿を見つけ、目を見開く。


「たい……よう。来てたんだ、ここに」


 全力で走る選手をそっちのけに光の視線は観客席にいる太陽に釘付けになる。

 その隣に親友の千絵もおり、何故2人がここにいるのかは分からないが、光の鼓動が痛いぐらいに速くなる。


「太陽……また、貴方の前で走れるんだね。それが私の応援で無くても、嬉しいよ」


 光の視線と意識が別の方に向いていると気づいた御影は光が見る方に目を向ける。


「……あれは、太陽さん、と高見沢さん。……もしかして」


 太陽の存在に気づいた御影は、その太陽を眺める光に声を掛ける。


「ねえ、渡口さん。渡口さんは本当に私との再戦が目的だけでこの選抜テストに参加したのですか?」


 唐突な御影の質問に光の身体は一瞬震える。

 その反応を御影は見逃さなかった。


「やはり、ですか。いや、殆どの理由が私との再戦だったとしても、僅かでも違う目的があったのでは?」


 畳みかける御影に光はただ顔を逸らして無言になるしかなかった。

 素直に光が口を開くとは思ってなかった御影は、はぁ……と息を吐いた後に光に言う。


「渡口さん。私、お門違いかもしれませんが、1つ、貴方に伝えたい事があるのですが」


 御影は何を光に伝えたいのだろうか、光が再び御影と顔を見合わせた時、御影は告白する。


「私—————太陽さんの事が好きです」


 その言葉を聞いて光の時は止まった。

 「え、は……」と困惑する光に御影は更に言う。


「勿論。友達としてではなく、1人の男性として好きです。もしかしたら、薄々勘付いていたのでは?」


 何故御影が自分にそれを言うのか光は理解が追い付かなかった。

 その驚きはタイミングを外した発言に対してであり、御影が太陽が好きだという事は、光自身、認めたくはなかったが、最近の2人の動向から、少なくとも御影が太陽に何かしらの好意を抱いていることは察していた。


 御影は先ほどまでのアスリートの闘志に満ちた表情ではなく、恋する少女が恋敵に向ける険悪な表情をして。


「これは正直、貴方には伝えたくなかったのですが、隠さず言いますね。太陽さんの元カノさん」


 ゆっくり時間を掛けて冷静を取り戻していた光の心拍数は再び上昇する。

 御影が太陽と光の関係を知っていた事に、光はこの時初めて知った。

 

 心臓が痛いぐらいに鼓動するのを長い深呼吸で押さえ、聞き手に回っていた光はここで口を開く。


「何を更に私に言う事があるのかな? 試合前に私を揺さぶろうとしているの?」


 光は御影の意図に牽制する。

 自分の最高の走りをする為に試合前には緊張を高める。その時に外部からの少しの揺さぶりで競技中のパフォーマンスに影響する。だが、それは決して卑怯ではなく、揺さぶられる方が精神的に未熟である。

 

「別にそう言った事ではありません。もしかしたら、貴方にとっては朗報な事かもしれませんよ」


 御影が何を言いたいのか分からず、光の苛立ちは募る。

 普段の光なら流す事はしないが、試合前で精神を落ち着かせたい光は強引に御影との会話を切ろうとしたが、その前に御影が言う。


「今の太陽さんの心にはまだ—————渡口さんが存在します」


 真剣な表情で口にした御影の言葉に、光は大きく眼を見開いた後に暫くして言葉を理解したのか、失笑する。


「それは何ともお笑い草だね。確かに彼と私は元恋人同士だった。けど、彼の心に私がいる? そんなわけないよ。あったとしても、自分を深く傷つけた最悪な女だとしてかもね」


「…………本当にそれだけなら、私は焦ったりしませんよ」


 光の返しに御影は小さな声量で何かを囁き、その囁きな光には届かなかった。

 御影はその真っすぐに伸ばした指で光を差し。


「ねえ渡口さん、私と賭けをしませんか?」


 唐突な御影の誘いに光は不謹慎と顔を歪め。


「賭けって……この選抜テストは皆が本気で挑んで、少ないレギュラーの席を奪いあっている。なのに、それ以外の賭け事は不謹慎過ぎないかな」


「それは重々承知しています。正直私も、なんで自分がこんなことを言ったのか分かりません。ですが、利害は一致するかもしれませんよ。勿論、貴方が私に勝てばですが」


「……賭けって、何を賭けるの……?」


 別に乗った訳ではない。だが、内容を聞かずして断るわけにはいかないと尋ねた光に御影は不適な笑みを浮かべて。


「簡単な事ですよ。敗けた方は—————今後太陽さんとは関わらないです」


「——————!? そ、それって……」


 驚愕で言葉を失った光の先の言葉を読んだ御影が代弁して言う。


「言葉通りです。敗けた方は今後学校、私生活でも太陽さんと関わらない。ですが、行事とかで多少関わるかもしれませんから、もし私が勝ちましたら、貴方の代わりにそれをします。文化祭の係の仕事とか」


 賭けの内容は至って単純だった。御影が説明してくれた通り、敗けた者は今後太陽とは関わらない。

 御影にとって太陽との恋を進めるには光の存在が大きい。光が太陽の傍にいる以上、太陽は光の影に引かれて新しい恋を進める事は出来ない。


 光の方も、もし御影が太陽と関わらない様になれば、太陽と『彼女』の仲が進展するかもしれない。

 光にとっては御影は『親友』の恋敵でもあるから、確かに互いの賭けの利害は一致する。

 

 光にとってこの賭けを受けるメリットはない。

 元々光と太陽の仲は破綻している。今更光が太陽と関わろうが関わらないが関係ない。

 だが、光は自分でも分からない程に先ほどまで以上に闘志が滾っていた。

 本当に光は『親友』の為にその賭けに勝ちたいと思っているのだろうか……。


「ハッキリ言って、断ろうと思っていた。けど、分かった。受けて立つよ、その賭けを」

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