顧問との約束

 陸上部恒例レギュラー選抜テストが始まる1時間前、光は千絵の伯母三好優香が経営する整体院に居た。

 最後の調整で通っており、光は施術ベットに腰を下ろし、優香が光の足を揉み確認する。


「……まあ、及第点って所だろうな。元々怪我の度合いが酷い上に更に酷使してたんだ。一か月でここまで回復すれば上々だろう」


「って事は、私は選抜テストに出てもいいってことですか」

 

 優香が光の足の回復に対して半々の評価を出す。

 だが、光にはそれだけで十分で、出れるだけでもありがたい。

 もしここでドクターストップが出れば整体師の権限で優香は光を出させるつもりはなかった。

 だが、若い故の回復力は目を見張るもので、優香のセーフティーラインのギリギリを超えていた。


「確かにその選抜テストってやつには参加することは認めるが、耳にタコだと思うが、無理だけはするな。少しでも足に違和感があればすぐに走るのを止めろ。それだけは守れよ」


 優香はこれまでに何度も言った言葉で光に釘を刺す。

 現在の光はあくまで応急処置に過ぎない。本当なら長期に渡ってリハビリを行うはずが、その期間は短縮して継ぎ接ぎな状態。いつ怪我が悪化しても可笑しくない。

 整体師としての目では大丈夫であるが、試合と練習では筋肉の酷使は変わる。練習の方が長い距離を走っていても試合では様々な要素で筋肉は萎縮して熱を帯びる。


「まあ、何度も言って来たからもう言わないが、そろそろ会場に向かわないといけない時間だろ。会場まで送るから」


「いえ。大丈夫です」


「大丈夫ってお前……そう言えば今日いつもは自転車なのに、もしかして」


 察した優香に光は、はいと頷き。


「選抜テストが行われる場所までそう遠くありません。ウォーミングアップでそこまで走ります」


「……別にお前がそう言うなら」


 優香は光にほとほと呆れていた。

 これから本番に近い走りをする身の光が手ぶらな訳がない。

 いつもは財布と携帯とタオルが入る程度の小さなポーチだが、今日はユニフォームや試合用のシューズが入ったスポーツカバンを持参している。そのカバンを背負いながら、10キロ・ ・ ・ ・以上離れた会場に走って向かうと言うのだ。

 

 だが、光が言う通り、ウォーミングアップと考えれば最適かもしれない。

 10キロも走れば筋肉は否応でも目を覚ます。しかし、背けられない事実もある。


「ウォーミングアップでへばるなよ?」


「分かってます。そんな軟な鍛え方はしていません。では、今日まで本当にありがとうございました」


「いや、礼を言われるのはありがたいんだが、別に今日が終わったからってお前の治療が終わった訳じゃ……って、聞きなさいよ!」


 気持ちが浮足立っているのか、深々と礼を言った光は早々に整体院を後にした。


 だが、途中で不運にも道が分からない老人に遭遇してしまい、案内をした事で遅刻する事になったのだった。

 

* * *


 会場に着いた光は、もう選抜テストが始まっているって事で、自分以外に誰もいない選手用の更衣室でユニフォームに着替える。

 この試合用のユニフォームに袖を通すのは去年ぶりだった。

 自身の身体が成長したのか少しキツイが支障はない。

 シューズも試合用に履き替え、靴紐を結ぼうと屈み、紐に握った時だ。


「………………ヤバイな。柄にもなく緊張してるな」


 まだ始まってないにも関わらずに手汗で濡らし、微かに震えていた。

 これはウォーミングアップと称して10キロも走ったからではない。光はかなり緊張していた。

 光はあまり緊張する質ではない。光が最後に緊張したのは憧れの選手でもあった晴峰御影と闘う全国大会以来だ。それ以外の大会では光は平常な気持ちで競技に取り込めた。

 だが、その自分が最後に緊張した相手、晴峰御影とこうやって再戦できるのだ。緊張しないはずがない。


 靴紐を解けない様にキツク結んだ光は、最後に鼓舞する為にバチンと両頬を叩く。

 頬から伝わる痛みと熱で光の目は闘志に燃える選手の眼となる。


「多分、今回が晴峰さんと走れる最後の試合。悔いは残したくない……それに」


 光は天井を見上げる。

 選手用の更衣室は1階で2階には観客席がある。

 その観客席に”彼”はいるのだろうか。


「……居ても居なくても関係ない、か。それに、もし仮に居ても、私の応援で来るはずがない、よね」


 光の脳裏に浮かんだのは”彼女”の顔だった。

 最近、彼が彼女と一緒にいる場面を何度も目撃している。まるで、昔の自分の様なものを。


 心に浮かぶモヤモヤを払拭する様に光は顔を振り、更衣室のドアノブを握り。


「今は目の前の事に集中。今は……私にできる事を全部出すだけ」


 そっと光は呟き、更衣室を後にする。


 昼で電灯は点いておらず、外部からの光源だけで薄暗い通路を反響を鳴らして歩く。

 1歩1歩競技場に近づく度に冷える様に緊張が加速する。

 事前に陸上部の顧問に許可を貰っているが、一度怪我で退部した自分が出るのは他の部員はどう思うだろうかと考える。

 受け入れてくれるだろうか、それとも一度辞めた自分に居場所はないと拒絶させるだろうか。


 競技場内の入り口に近づくにつれて明るくなり、光は通路と競技場の境界線を越える。

 その一歩は、重たかった。


「お、おい……あいつって……」


 観客の誰かが多分、自分を指してそう言った。

 光は観客席を振り返らずに、真っすぐと選手たちが待機するスタートラインに悠然とした足取りで歩く。

 四方八方から刺さる様に伝わる視線。光はゴクリと唾を呑みこんで、光を見て唖然とする記録係を務めるマネージャーに言う。


「スミマセン、整体院に言ってて遅れました。渡口光、1500mに参加します」


 光が参加を表明すると、記録係は「え、え?」と理解が追い付かない様子で記録用紙と光を何度も顔が往復する。

 この様子だと、記録係には事前に知らされてなかったのだろう。

 会場中が予想外の人物の登場に困惑な空気を漂わしていると、競技場の隅に立っていた陸上部の顧問である河合が、記録係の助け舟として光の許に歩み寄る。


「遅かったな渡口。いないからてっきり来ないかと思ってたぞ」


「遅れた事は本当にすみません。けど、ここに向かう途中で遅刻すると連絡していましたが?」


 光が返すと河合は喉で笑い。


「そうだったな。だが、遅刻に関しては許容する事は出来ない。測定が終わった後に一学生として説教な」


 はい、と如何なる理由でも遅刻はいけない物だから反論はしない。

 時間も押している事だからと、河合はさっさと定位置に戻ろうと光に背中を向けると、最後に光に確認する。


「俺はお前に参加の許可は出したが……条件は覚えているよな?」


 光は顧問の河合から、今回の選抜テストに参加する条件を幾つか提示されていた。



————————それはGWで行われた陸上部の合宿の時だった。


 光は夏風邪で休んだマネージャーの代行で急遽、代理として選手のサポートをする事になった。

 その合宿の1日目の夜だった。光は1人で顧問用で用意された部屋に訪れた。

 陸上部顧問の河合は部員たちのデータの整理をしていたのかパソコンに向かって作業をしていた。

 そこに光が来た事で、河合は少なからず驚き、半身を光に向けて対応する。


『どうしたんだ渡口。何か俺に用か?』


『はい。先生に1つお願いごとがあって来ました』


『お願いごと? なんだ』


 生徒の要望には可能な限り答えるつもりの河合が光に問うと、光は真っ直ぐな目で願いを言う。


『7月の上旬にある選抜テスト、私も参加させてください』


 河合は驚きでか小さく口を開けて唖然とする。

 そして河合は聞き間違いだったかとハハッと小さく笑い。


『お、おい……今お前なんて言った? 7月の選抜テストに出たいって聞こえたんだが……?』


『はい、言いました。毎年恒例のレギュラー選抜の1500mに私も参加させてください』


 深々と懇願する光に河合はなにを言えばいいのか少し言葉を失う。

 半身で適当に聞いていた河合は光の真摯な態度に当てられてか真正面に話しを聞く事にした。


『なんでそんな事を言うんだ? 前にお前から聞いた話だと、完治は早くても3年生らいねんだと聞いていたが』


『それはあくまで医者の予想です。怪我も人によっては早く回復する事もあります』


 光の目は河合の目から外れなかった。

 ここで一瞬でも目を逸らせば嘘が看過されてしまう。

 光の足の怪我は完治していない。どころかここ2か月では一切回復の傾向は無かった。

 だが、光はそれでもその選抜テストに参加したかった。憧れの彼女ともう一度競いたい為に。


 沈黙の時間は流れ。光は息苦しい空気の中に嘘偽りのない顔をした表情で河合に目で懇願する。

 河合は暫し沈黙していたが、はぁ……と長いため息を吐いて、その判断を下す。


『駄目だ』


 それは3文字ながらも光をどん底に落すのには十分だった。

 絶句する光に河合は捲し立てる様に理由を述べた。


『お前が怪我の事をどう言おうが、俺は医者の意見を尊重する。だから、最低でもお前が3年に上がるまでは参加を認めない』


『ほ、本当に怪我の方は大丈夫なんです! じ、実を言うと私は裏で復帰の為のリハビリをしていて、足の方は—————』


『口だけではなんとでも言える。それに、お前には前科があるだろ』


 顧問は光の言葉を遮り重たい一言を投げる。

 光はそれに押し黙り、下を向く。


『お前は去年もそう言っていた。俺やコーチ、他の選手からも休めと言ったのに、お前は何も聞かなかった。何かの執念の様に頑張ってて、俺達もお前に期待していたが、実際のお前は、怪我をして退部する事になっただろ』


 光にとっては苦い記憶。

 頭がごちゃごちゃになって、考えるのを止めたいが為に走って忘れようとした。

 確かに走っている時は嫌な事を忘れる事が出来たが、その代償は更に辛い現実だった。


『あの時のお前の頑張りは評価する。あれが中学の頃に全国大会で優勝経験者なのかと、周りは羨望した。今だって、お前に憧れを持つ部員も沢山いる。だが、お前は周りを沢山心配させる大怪我をした……正直、お前の限界に気づけなかった教育者俺達の落ち度もある」


 顧問やコーチは選手のを鍛えると同時に選手の身体を保身する役割も持つ。

 故に、選手の怪我は顧問やコーチの責任と言っても過言ではない。

 当時の河合は光に多大な期待を寄せていた。

 全国大会優勝経験のある光が全ての推薦を断り、鹿原高校に入学して来てくれた時は、大喜びした。

 

 光は1年ながらに上級生よりも好記録を叩き出し、全国大会への切符を確証した。

 だが、まるで何かに取り付かれたかの様な、まるで己を傷つける様な激しい練習をする光を、河合は光が壊れるまで止める事は出来なかった。

 全部が全部河合の所為ではない。結局は選手自身が抑制しなければ怪我は必ず起こってしまう。

 しかし、光の怪我を多少なりとも責任を感じてる河合は、光をこれ以上無理させる事は出来なかった。

 

『……まあ、正直に言った話だと。今年の春ぐらいにお前からそれを言われると、俺も判断を鈍らせただろう。言って悪いが……今年の選手は不作が多い。多分、全国への道は遠いだろう。だから、少しでも可能性が大きいお前に託してたかもしれない。だが—————』


 言い淀む河合。

 今年度の初めの春なら自分の頼みが聞き入れられて、今は無理なのか理由は悔しながらも察した。


『今の鹿原には、晴峰御影がいる。あいつなら、学校の名を全国に持って行ってくれる。……酷な話だが、俺は……お前にもう、期待しない。少なくとも、足が完治するまでは』


 厳しい言葉であるが、これは顧問の優しさでもある。

 今の鹿原高校には光と同等以上の実力を持つ晴峰御影がいる。

 なら、光が無理せずとも御影が鹿原の名を背負ってくれればいい。

 だから、光は足の治療に専念しろという気持ちが込められている。

 

 光もそれは分かっている。顧問が厳しい言葉を言って光を諦めさせようとしている事も。

 だが……光は諦めなかった。


『……分かってます。今の私は、誰からも期待されいないことは。1年の頃は期待の星だとかでチヤホヤされてましたが、私はただの……自分の事さえも見えてない馬鹿な選手です。尊敬されるだけの選手ではありません……。けど、それでもお願いします。私にもう一度チャンスをください』


 土下座まではせずともそれと同等の誠意の籠った懇願に河合は苦渋で顔を歪ます。

 

『もし先生が少しでも私の足に違和感があればすぐに止めます。その時はもう、我儘は言いません。潔く諦めて陸上を辞めます』


 光は理解している。自分のこれは我儘に過ぎないと。

 だが、それでも光は、来年とは言ってられない。来年も彼女が学校に残っているという保証はない。

 目の前の再戦を逃せば、次の機会があるかも分からない。だから光は、ここで食い下がるわけにはいかなかった。


『…………はぁ。お前が何を言うおうが認めるつもりはなかったが……。分かった。渡口。お前が選抜テストに参加する許可をやる』


『ほ、本当ですか!?』


 光は喜色な表情で顔を上げて聞き返すが、河合は『ただし!』と強く突きつけ。


『お前も高校生だ。自分の言葉に責任を持て。お前は先刻さっき。俺がお前の怪我の影が見えた時は直ぐに止めると言ったな? その言葉は守れよ』


『は、はい!』


『そしてもう1つ。許可を出したからと言っても、部に復帰させる事は出来ない。お前は今、影で努力していると言ったな。その現状で続けろ。そんで整骨院か整体院に通え。そこの許可が出たら、参加を許可する。いいな?』


『は、はい! ありがとうございます! 河合先生!』


 合宿の期間にそう言ったやり取りを経て、光は誰からも知られずに選抜テストに参加できる事になった。

 何故顧問が光を陸上部に復部させなかったのかは分からないが、それでもこの部の大一番に参加できるだけでも、光は顧問に感謝する。


「そんで。整体師からの許可は下りたのか?」


「はい。今朝直々に許可を貰いました」


「…………そうか」


 河合は激励で光の肩を叩いたかと思えば、河合は正直な気持ちを吐露する。

 

「正直、俺は参加させたくはなかったが……少しは肩の力を抜け、それだけだ」


 それだけを言い残して、河合はその場から離れる。


 光の許から離れた河合は、競技場の壁に全体重を乗せる様に凭れ、晴天の青空を仰ぐ。


「選手の無茶を容認するとか……俺ってマジでダメダメな顧問だな……」


 本来なら如何なる理由であろうと、どんなに選手にやる気があろうと無茶を容認するのは顧問として三流以下だ。河合も重々自覚している。

 だが、河合はどうしてもその頼みを突っぱねる事は出来なかった。


「たった一度しかないことへの学生のやる気を、大人の正論で無碍には出来ない……。あーあっ、俺、明日から教員室に席あるかな……」

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