朝練

 夏が近づくも、まだ早朝は肌寒く、冷える空気は長袖が無いと身震いする。

 太陽は学校指定の長ジャージとズボンを履いて、昔から知っている一般開放されている運動場のトラックのスタート位置で、ストップウォッチのタイマーを片手に立ち。

 デジタルタイマーが1秒時間が進むごとにピッピッと鳴るように設定をして、太陽はただタイマーが10秒刻むごとにトラックを走る御影に大声で時間を教える事をしていた。


「1分20秒経過! 残り10秒以内に1周しないとペナルティーだぞ!」


「分かってます! よし、これで9周目! 残り1周!」


 御影は太陽の前を通過すると再びトラックを走って行く。

 現在御影が行っている練習メニューはシャトルラン。

 この運動場のトラックの一周は約400m。あらかじめ1分30秒の時間制限を設け、その時間内に1周しなければ御影自身が定めたペナルティー、足上げ100回をしないといけない。

 練習回数は10周で、現在で9周走り残り1周。

 流石、全国大会有力者の御影と言うべきか、ペース配分が完璧で、1周目から現在まで全くスピードが衰えていない。それに、気持ちを上げてスピードを上げる事も無く、一定の速さを保って時間ギリギリで一周できる様に調節している。

 

 太陽が御影の実力に感心している間に、御影は残り一周を終えてスタート兼ゴールでもある太陽の許に辿り着く。


「最後の1周は1分29秒。時間の感覚がヤバすぎるだとかは言わないが、流石、天才と呼ばれるだけの事はあるな」


「それは……どうも、です。けど、前の練習が残っているのか、10周でもかなりきつかったですね」


 朝の肌寒い空気が御影の肌を濡らす汗を冷やす。

 疲れで乱れる呼吸も無理やりか整えて、御影は額の汗を拭う。

 そんな御影に太陽は御影が持参したカバンから勝手にタオルを取り出し、御影にそれを渡す。


「それにしても本当にありがとうございます。こんな朝早くに来て頂いて」


「それを今更言うか? 当日は無くなったが、前日の夜中に連絡して来るくせに。明日の朝練に来てくださいって今の所、週3ペースで手伝わされてるが?」


 前にせめて当日の連絡は止めてくれとクレームを入れた後は、前日の夜中にメールや電話で明日朝練をするから太陽に来て欲しいと頼む事になったが、まだ6時を過ぎた頃で太陽は中々に眠い。


「いいじゃないですか。どうせ暇ですよね?」


「こんな朝早くだと暇も忙しいもあるかよ。この後は学校があるって言うのに……。お前の所為で最近夜更かしが出来なくなってるんだからな?」


 朝早いって事は、遅くまで起きていると平日の場合は学校に響く為、御影からの連絡を貰った日は遅くても10時に寝る様になっており、夜行性気味の太陽はそれが不満だった。

 だが、御影は全く響いた様子が無く、そして悪びれる事はなく。


「それは良かったですよ。夜更かしは健康の大敵ですから。これで太陽さんも健康的な生活が続けられますね」


「お前は俺の何なんだよ……」


 暖簾に腕押しか、御影に文句を言っても軽く流されるだけで半ば諦め状態の太陽。

 だが、太陽はこの様な経験を昔もしていたから受け入れるのは早かった。


「ホント……マジでお前はあいつに似ているな。自分勝手な所が」


「……あいつとは……もしかして、光さんの事でしょうか?」


 何気に呟いた太陽の一言が御影の耳にも届き、御影は太陽にそう尋ねた。


「……まあな。昔、あいつがまだ陸上を続けてた頃は、こうやってあいつの練習に付き合ってたからな。俺があいつを陸上に誘った手前、何もしない訳にはいかないから」


「渡口さんを陸上に誘ったって……それって」


「あいつは昔から同級生の中で運動神経はずば抜けていた。同学年俺達の中であいつに足の速さで勝つ奴はいなかった。だからか、色々なスポーツ団体から声はかかってたんだ。野球、ソフトボール、サッカー、バスケとかな。けど、あいつはどの団体にも入らなかった。理由聞いたら笑えたよ。『太陽と一緒にいる時間が減るから嫌だ』ってよ。マジであいつは自分の才能を無駄遣いしてたんだ」


「……そんな渡口さんを、どうやって陸上に……その前に何故陸上を?」


 最もな質問だ。

 スポーツは多種ある。その中で何故陸上を選んだのか疑問である。


「切っ掛けは俺があいつを陸上に誘ったんだが。俺がなんで陸上を選んだのかは……昔、父さんが見ていたスポーツ番組で特集されていた陸上選手の雄姿を見て、俺が興味を持ったからだ」


「陸上選手……とは?」


 大雑把に陸上選手と呼称されても選手は数多くいるから御影には見当がつかない。

 太陽は頭を捻る御影をクスッと微笑して。


「ほんと、因果とか運命って不思議だよな……。その番組で特集された陸上選手の名は—————桜ノ宮凛。お前の母親だ」


「お母さん!?」


 御影は吃驚する。

 太陽が陸上に興味を持った原因が自身の母親なのだから無理はない。


「引退しての昔の映像だったけど、お前の母さんの姿は子供ながらにワクワクしたよ。世界大会でメダルは獲れなかったとしても、マジでカッコイイと思った。だから俺は陸上の団体に入る事にした。そして……自分の才能を無駄遣いしてくすぶっていたあいつを俺が陸上に誘ったんだ」


「そう……だったんですね。なんといいますか、自分の母親が切っ掛けで何かしらの目標が持たれるってのはなんだかむず痒いと言いますか……。けど、太陽さんは今は陸上はしてないんですよね?」


「まあな。入って直ぐに痛感したよ。俺には陸上の才能はないんだってな。それにその後の事故の所為で俺は脚を怪我して、今もあまり全力では走れないでいる」


「そうだったんですね……。入って直ぐに自分に才能が無いと投げ捨てるのは早計だと怒ろうと思いましたが、怪我では仕方ないですね。太陽さんが陸上を辞めた後も渡口さんは陸上を続けた、と」


「そうだな。あいつには才能があった。最初の頃は不慣れで敗けたりして泣いたりしたが、努力を怠らずにメキメキと頭角を現して、中学の時には天才の血を引いた誰かさんに勝ったりしたんだからな。そんでその誰かさんは俺の前で自暴自棄になって」


「むぅー! その話は止めてください! 私もあの時は負けの傷が原因で……思い出しただけでも顔から火が出そうです!」


 揶揄うよう太陽に顔を真っ赤にして頬を膨らます御影。

 

 日の光が昇り始め、太陽たち以外の早朝ランニングで運動場に人が来始める。

 御影は学校の昼食の弁当の用意をしなければいけないからそろそろ帰らなければいけない。

 だが、太陽とここで別れる前に御影は太陽に訊かなければいけない事があった。


「あの太陽さん。1つお伺いしてもいいでしょうか?」


「ん? 内容によっては拒否するが、一応聞いてやる。なに?」


 御影は真剣な眼差しで太陽を見据えて口を開く。


「太陽さんは、渡口光さんのことどう思っているのですか」


 思いがけない質問に太陽は言葉を失う。

 数秒唖然とした後、ふぅ……と息を捨て。


「拒否でOK?」


「駄目です」


 間髪入れずに拒否の拒否に太陽は顔を顰める。

 まるで太陽の都合はどうでもいいように、御影はその事を聞きたいのか。

 太陽は今日は快晴なのか雲が少ない空を仰ぎ、諦めた様に質問に答える。


「前にも言ったが、”今”のあいつは俺にとっては嫌いな相手だ。ただ、それだけだ」


「今は……ですか。そうですか、そうですよね。だって、昔のことを語る太陽さん、凄く楽しそうでしたから」


「俺が楽しそうって……そんな顔してたのか?」


「してましたよ。前のファミレスの時から感じていました。確かに今は渡口さんの事が嫌いでも、昔の……まだ2人が仲良かった時の思い出は大切なんだって……太陽さんが話している時の顔からすれは窺えました」


 自分の顔は鏡がないと気づかないものだ。

 現在の相手を嫌悪しても昔の楽しかった思い出が消える訳がない。

 過去の事を話している時の太陽はまるで昔に戻ったかの様に楽しく話していたのかもしれない。


「太陽さん……もう1つ聞いてもいいでしょうか……。まだ太陽さんの中に、渡口さんはいるのでしょうか」


 太陽は御影の質問の意味が分からない。

 太陽の中に光がいるとは、それはどっちの意味でだろうか。

 良い意味でも悪い意味でも捉えられる抽象的な質問に太陽は困惑する。


「そんなの俺にも分からねえよ。だが、言えることは……。簡単に忘れられるならどれだけ楽だったかって事だけだ」


 記憶はその人にとって大事な程に根強く心に根を張る。

 深く埋められた記憶は簡単には抜き取れない。想いも然りだ。

 失恋して直ぐに切り替えて忘れられたのならどれだけ楽だったのか太陽は思い知らされている。


「そうですよね……。前に私は言いました。相手の事を想わずに付き合うのは最低な人間で、人の気持ちを利用する詐欺師だって。太陽さんは誰に対しても真摯に向き合う誠実な人です。だから、なんでしょうか。かなり複雑ですが、太陽さんの中にはまだ、良かれ悪かれと渡口さんの存在が大きいのでしょう」


「…………………」


 太陽は無言で御影の言葉を聞くだけだった。

 

「……だから私はまだ言いません。太陽さんの中で私が渡口さん以上に大きな存在になった時にいう事にします。私、負け戦は嫌いですから」


「マジで言っている意味が分からなんだが……てか、負け戦は嫌いってそれって良い事なのか?」


「いいんです! 軍師が慎重でなければ戦には勝てません。だから……どんなに時間が経とうと最後に勝てばいいんですよ。では、今日はありがとうございました。また学校で!」


 破天荒に去って行く御影の背中を茫然と眺める太陽。

 女心……否、御影の心は全く読み取れない、と、太陽はまた千絵に少女漫画を借りようかと考える程だった。

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