別の場所から

 女性にとって、週に4度の早朝トレーニング。

 1年前の怪我をする前はほぼ毎日の様にこの階段を昇り降りしていたが、完治していない脚では週に4度と短時間が限界である。

 なら、完治するまで安静するのが賢明なのだが、女性……否、渡口光は安静に時間を過ごせる程に心の余裕はなかった。


 思いがけない好敵手との再会。

 その者は自分と遠い地で研鑽しているのだと思ったが、まさか田舎の地に引っ越して来るとは予想外過ぎる。


 彼女、晴峰御影と直接的ではないにしろ、交わした約束。

 高校になってもう一度戦う約束。

 

 中学の頃はそれが嬉しく、中学の部活を終えても光の練習は止まらなかった。

 逆に、次も自分が勝てるなんて傲りを捨て去り、より一層の練習に励んだのだが。


 いつぐらいからだろう……約束それよりも光が別の物を優先しようとしたのは。

 忘れたわけではない、ただ、光にとってそれよりも果たしたい物が生まれてしまったのだ。


「……たくぅ……最悪だよ。これじゃあ、また千絵ちゃんに怒られるな、私……」


 いつもなら10往復程度で切り上げる所だが、今日の光はその倍以上、この階段を往復している。

 

 最近では、治りかかっているのか、それとも逆に痛みに慣れたのか足の痛みは少ない。

 だが、時折鉛を付けたかの様な重い違和感を感じるが、光にとってどうでもよかった。


「……もう少ししたら、帰ろうかな……」


 光は昨晩の睡眠であまり寝付けなく、練習の疲れとは別の怠さが残る。

 

 寝付けなかった原因は分かっている。

 息をするのを忘れるぐらいの衝撃的な再会に、胸が引裂かれそうになった。

 思い返す度に胃の中の物が逆流しかけ何度も嗚咽した。

  

 何故、彼女がここに引っ越して来たのか……。


「考えててもしょうがないよね……。今できることを考えよう」


 光は陸上を諦めてない。

 医者から今後の為に高校では安静にしとくように忠告されたが、これは、光がもしかしたら世界大会の有力候補に選ばれる可能性があるとしての示唆だろうが、光は世界とかは眼中になかった。

 最悪の場合、光は陸上を高校で辞めるつもりでいる。

 だから、光は高校でもう一度トラックに立つんだと、石段の一段目に足をかけた時だった。


「なんか複雑な道を通りますね。この先に練習できる場所があるんですか?」


「まぁな。お前が気にいるかどうかは知らんが、一応な」


 何故か早朝は人の声が通りやすい。

 少し遠目の位置なのに、誰かの会話が光にも届いた。

 その二つの声に光は聞き覚えがあり、バッと振り返る。

 

 光の目線の先には、自分の元カレでもある幼馴染の古坂太陽と、自分を追いかけて転校して来た陸上の好敵手であり憧れの選手晴峰御影が並んでこちらに歩いていた。


「ど、どうして二人が!?」


 驚愕して狼狽する光は、自分でも分からぬままに脊髄反射的に近くの茂みに隠れてしまう。

 息を殺し、音を消した光は、声を発さない為に手で口を覆い、身を縮める。


 どうやら二人は光の存在に気づいてないらしい。


「(ど、どうして二人がここに……? そう言えば、昨日、太陽と晴峰さんってなんか知り合いみたいな感じだったし、こんな朝早くになんで……)」


 茂みに姿を隠しながら、光は二人の会話を盗み聞きする。

 会話を聞き、どうやら太陽はまだ土地感を得ていない御影に、自主練に最適な場所を教えているらしい。

 何故、こんな朝に? と疑問に思うが、光は二人の前に姿を出さない。


 御影が太陽に近隣の墓地に対して不平不満を漏らすも、仲良く話す二人を見て、光は胸が痛かった。


「(……もし、私があんな事しなければ、まだ、あの隣にいられたのかな……)」


 泣きそうになる目をグッと堪え。


「(違う。私が選んだ道だから、後悔しちゃいけない。……あれは――――――太陽の為なんだから……)」


 中学の頃に光が太陽との関係を切った。

 だから、自分で選んだのに後悔はしない。

 そう思えば思う程に、今の現実が辛かった。


「それじゃあ良い機会ですし、どちらが先に登れるか競争です! よーいスタート!」


 御影のハツラツな掛け声に光はバッと顔を上げた。

 

「は? あっ、ズルッ!? てか速ッ!? 待てよおい!」


 途中から会話を聞いておらず、突然の事だったが、どうやら太陽も呆気に取られてスタートを出遅れたらしい。

 

「(競争って……太陽が晴峰さんに勝てるわけがないよ。彼女、全国レベルに速いんだから)」


 勝負の結果は明白。

 光は太陽が彼女に勝てる可能性は皆無と苦笑する。

 そもそも、足音からして太陽は全然昇ってない。

 どうしたんだろ? と茂みから顔を覗かせようとすると、


「……あれ、どこかで見覚えが……」


 再び光は身を縮まらせる。

 危なかった。太陽がこっちに視線を向けている事にもう少し遅れれば完全に顔を上げていた。

 間一髪で太陽には気づかれないようだが、太陽が今言った言葉を思い返すと。


「(――――――――あっ!? 忘れてた! ポーチ、置きっぱなしだった!?)」


 光は自分の失態に気づく。

 自主練に来ていた光は勿論手ぶら来るはずもなく、タオルなどを収めたポーチをベンチに置きっぱなしにしていた。

 太陽はそれに気づき、ポーチの許に向かおうとしていた。


「(ヤバい! あれを見られたら私がここにいるってバレたんじゃ!?)」


 別に光がここにいる事をバレてもいいのだが、光自身は何故か最後まで隠し通したい。

 しかし、持参した青いポーチを彼に見られれば自分がここにいるのを気づかれるかもしれない。

 何故なら、あの青いポーチは―――――


「古坂さーん! どうしたんですかー! 私、もう登り切ったんですが! ギブアップですか? 私がおぶって昇ってあげましょうかー?」


「高校男児舐めるな! これぐらいの階段、登り切れるわ!」


 先に登り切っていた御影の煽りに近い呼びかけに太陽の意識はそっちに向けられる。

 そして太陽も全力で階段を登って行き、足音は徐々に遠くなる。


「……危なかった……。気づかれなかったみたいだよ……」


 へなへなと力が抜けて尻が地面を滑り落ちる。

 太陽に気づかれなかった事に安堵する光だが、心の隅で少し寂しげだった。


「……太陽。これ見ても気づかなかったな……」


 太陽と御影の姿が見えなくなり、茂みから出た光は置き忘れたポーチを手に取り悲しげな表情となる。


「……うん、まぁ……覚えてなくても仕方ないのかな……。だって、これをプレゼントしてくれたのが、小学生の頃だったんだから」


 この今ではボロボロのポーチ。

 所々が裂け、それを修繕した糸の跡。

 これを贈ったのは親ではなく、太陽だった。


 陸上を始めてから、初めて光の誕生日を迎えた日に、太陽がプレゼントとして贈った物。

 後から太陽の母親から聞けば、これを贈る為に太陽は家事の手伝いをしてお小遣いを貰い、それをコツコツ貯めて安物だが、初めて太陽が自分で買って、初めて光に送ったプレゼント。


 光はこれを永遠の宝物にしようと、高校になった今でも使い続けてる。


「……私ってほんと、未練がましい女なんだな……」


 ギュっと胸に抱き、自嘲する光だったが、


「―――――ほんと、私って未練がましいというか、これじゃあ――――――」


 その先の単語は言わなかった。

 言えば、色々とアウトな気がして。


 光がいる場所は、運動場の隅にある倉庫の物陰。

 そこから運動場に移動した太陽と御影を観察していた。


「これじゃあ私……元カレと仲良くする女性が気になるストーカーじゃん……。いや、未練はあるけどさ……」


 最後には言わないようにした単語を口にしながら肩を落す光。

 物陰から太陽と御影を観察する光だが、何故、自分があのまま帰らず、二人を眺めているのか分からない。


 仲睦まじく、まるで、昔の自分たちを見ているかの様な談話する二人。

 御影はこれから自主練するのか、着ていたジャージを脱いでスポーツウェアに着替え、太陽を置いて走り出す。

 

「(……もし、怪我がさえなければ、晴峰さんと一緒に練習できたのかな……)」


 御影は光にとって憧れの選手。

 陸上の記事でいつも取りあげられ、幾つもの記録を持つ彼女を目標にする選手は少なくない。

 同い年で凄いと羨望していた相手だが、中学時代に一度、光は彼女に勝っている。


 今でも彼女に勝てた事が信じられない自分だが、今はそれ以上に御影と一緒に走れない事を悔やむ。

 だが、もしもの現実を思っても後の祭りに過ぎなかった。

 

「(なら大学で……いや、私は陸上は高校までって決めてるんだ。高校で、私の走る意味は無くなるんだから……)」


 穴が空いたかの様に失意を感じる光を他所に、ベンチに腰掛けたとはずの太陽が横に倒れる。

 ベンチの隙間から太陽の身体が見え、彼の身体が上下にゆすられていた。


「(寝てる……のかな? いま)」


 太陽が眠いのは仕方ないのかもしれない。

 元々太陽は朝に弱い。昔は自分が迎えに行って起こしていたぐらいに彼は寝坊癖がある。

 高校に入ってからは解消されたようだが、こんな朝早くから起きてればまだ眠気も取れてないはず。


「(……このままじゃ、風邪、引くよね……)」


 光はポーチからタオルを取り出す。

 スポーツタオルでバスタオルよりかは小さいが、少しは寒気を防げるかもしれない。

 光は練習している御影に気づかれない様に速足で、尚且つ太陽を起こさない様に足音を消す。

 

 ギリギリまで太陽に近づいた光は、タオルを太陽に羽織らす。

 タオルの長さは男子高生の体躯に届かないが、それでも無いよりかはマシかもしれない。

 太陽の眠りは深い様で、タオルをかけても起きない。

 光は直ぐに逃げる様に去ろうとしたが、彼に背を向けた時、小声で囁く。


「……ねえ、太陽。私は別に、太陽が誰と仲良くして、今更とやかく言える立場じゃないけど。……せめて思い出してあげて。そうじゃないと、彼女が可哀そうだからさ」


 この言葉が太陽に届くはずがない。

 知っている。太陽も気づいていないのだから。

 あの日の3人の運命を狂わした事件を、太陽だけが、知らないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る