❖ 5 ❖
「おはよ」
7時に下に降りるとすでに昌がキッチンに立っていた。卵を割っている。
「おはよう! ごめん、のんびりし過ぎた!」
「汐って、寝坊助?」
「そんなこと無いけど。昌は?」
「早く寝ちゃうからさ、朝早くに目が覚めるんだ。6時過ぎに散歩して、帰ってきたら朝飯作るって感じ」
「健康的な生活してるんだな! 明日はちゃんと起きるよ。何しようか、サラダは?」
「じゃお願い。卵、目玉焼きでいい?」
「なんでもいいよ」
まるで父と一緒にいるようだった。それほど日が経っていないのに懐かしさに眩暈がしそうだ。
思いを振り払うように頭を振る。
「今日はどうする? 天気悪くないよ。でも散歩は朝したんだよな」
「釣りがしたい! それなら竿が何本かあるよ」
「釣った魚はどうするの?」
「近くにさ、荻野さんっておじさんがいるんだ。持ってくと刺身とか煮魚とかしてくれるからそれ食べてる」
「まるで自給自足だね。昌は偉いなぁ!」
昌は照れたように下を向いた。
「そんなこと言われたこと無い」
「そう? 俺だったらいい加減な生活になるような気がする」
「ならないよ、汐は」
「意外と俺はだらしないんだ。そうだ、勉強さ、見てあげるよ」
ぱっと顔が上がった。
「ほんと!?」
「うん。俺も昌にやれること欲しいしね。家庭教師やるよ」
嬉しそうな顔をする昌を見て、まるで兄になったような気がした。
昌は勉強が良くできた。苦手なのは古文と地理。
「英語より分かんないよ、昔の日本語って!」
「そうだよね。時代によってこれほど言語が変わった国も珍しいかもしれない」
「汐はオールマイティって感じ。苦手ってあるの?」
「あるよ! 古文だろ? 地理だろ?」
昌は吹き出した。
「じゃ、教えるのって苦痛?」
「苦手だからさ、人一倍勉強したの。入試にだって関わるし」
それは本当だ。そのためだけに勉強したといえる。
「ふぅん……大学って……楽しい?」
どきり、とした。昌の未来に大学はあるのだろうか……
「楽しい、ともいえる。講義を除けばね」
また昌が笑う。
「そのために行ってるのに?」
「薬剤師に……なろうと思ってたんだ」
父の役に立ちたかった。医師になるには垣根が高すぎる。だからせめて薬剤師に、と思った。その道も当然険しいのだが目標があったから頑張れた。しかし今となっては……
「思ってたって、今は?」
「考え中。だから休学したんだ」
明確な目標が消えてしまった今、その道に魅力も未練も無くなってしまった。そうだ、それも堪えているのかもしれない……
「俺さ」
急に昌の声が小さくなった。そのまま言葉が消える。
「なに?」
「……9月に……手術受けるんだ」
鼓動が跳ねた。
「二度目、なんだけどさ」
返事が出来ない。
「聞いちゃったんだ……成功率……40%って」
父は70%だった……
「4割が成功って……大学入試の倍率より低いよね、きっと」
「……そんなことないさ、今の医学は、」
「お父さん、手術で死んじゃったんでしょ」
(なんて……なんて言えば)
口にすればすべてが嘘になるようながした。気休めなど言えない。けれどそれさえ言えなかったら。
「成功率……20%無かったから。それに体力が無かった。年齢的にもね。昌みたいにぴちぴちの中学生なら成功率は上がると思うよ」
「そう!? そう思う?」
「俺はそう思うね。だから病室でも勉強教えてあげるよ。どうせヒマだろ?」
「うん!」
「しょうがないから昌の兄貴になってあげるよ」
「ほんと?」
「だからスパルタ教育するぞ」
嬉しそうな顔を見て、寂しいのだ、と思う。入院してもきっと見舞客もそうはいない。身内でさえどれくらい関わってくれるのか。
「大樹のこと、なんだけど……」
「大樹さん?」
「うん……誰にも言わない?」
「言わないよ」
汐は厳かに答えた。
『誰にも言わない?』
高校生だ。多感な年ごろ。打ち明け話満載のこの時期に、昌にはなんでも話せる相手などいるのだろうか。
「……あのね」
「聞くよ、なんでも」
「好き、なの」
「え?」
真っ赤になった昌がぱっと両手で顔を隠した。
「うわあああ! 言うんじゃなかった!」
「大丈夫だって! 大丈夫だから」
(どういう『好き』なんだろう)
憧れ、という意味なのだろうか。一番近い大人。父親がいないも同然なら、父性を感じてもおかしくない。それを『恋』と混同しているのなら分かる気がする。
「そっか。じゃ、逃げちゃうのは嫌いなんじゃなくて照れてるのか」
両手で隠れた顔が何度も頷く。
「そうかそうか。いいよ、言わないよ、誰にも」
「大樹に……言わないよね?」
「言わないよ。でも一緒にいるのは嫌なの?」
「だって……どんな顔してたらいいか分かんない」
汐はくすっと笑った。
「そうか。昌は照屋さんか」
切なくなる。数少ない接触者の中で恋に近い思いを抱いている昌が。
ホテルと反対の方に歩いていくとだんだん波音が大きくなっていく。釣り竿を抱えて歩く昌の声は弾んでいた。
「いつもこの先の磯で釣るんだ」
「磯? 危なくないか?」
「ううん、たいしたことないから」
行ってみると本当に大したことがない。10段ほどの階段まである。降りていくと座って釣りを楽しむのにちょうどいい置き石までいくつもあった。
「なんだ、人口の磯なんだね」
笑ってしまった。まるで釣り堀の海版みたいで。直接荒い波が当たらないように離れたところにテトラポットが散開している。
汐に笑われて昌はぶすっと膨れた。
「だって……大樹にここなら釣りしてもいいって。ここ、昔ウチが作ったらしいんだ。本当の磯釣りじゃないけど……」
「いいよ、笑ってごめん! 釣りってあまりしたことないから教えて」
そう言うと途端に嬉しそうな顔に変わった。あれこれ教わって釣り糸を垂れる。
「何が釣れるのかな」
「だいたいメジナとかクロダイ。俺にはクロダイとか大きいのは釣れないんだ、暴れるから」
細い腕では大物を釣るのは無理なのだろう、悔しそうな声だ。
釣りをしていると口が解れるのか、昌は自分のことをいろいろ話し始めた。
「俺を産んだお母さんはすぐに死んだんだって。今いるオバサンは親父の後妻。バカみたいだ、大樹と同じくらいの年でさ、大樹を見ると声が変わるんだよ。お前は親父と結婚してんだろ! って言いたくなる。でも大樹が相手してないから黙ってるんだ」
どう相槌を打てばいいか分からない。。大きな家にはそれなりのゴタゴタがあるのだろう。だが後妻との間に子どもはいないらしい。
(じゃ、どうして兄弟は構ってくれないんだろう?)
姉と兄がいるのだと言う。姉は23歳。大学を出てから父親の会社で秘書をしているらしい。来年結婚することになっているそうだ。兄は大学3年生。汐の一つ上だ。昌とは6つ離れていることになる。
(年が離れてるから、かな)
そんな風に思った。
「大樹さんはいつから昌の面倒を見てくれてるの?」
「物心ついた時にはもういたよ。どこに行くのもずっと大樹が一緒なんだ。家族でなんて出かけないし。あ、出かけないのは俺だけ。きっと俺、親父が浮気して出来た子なんだと思う」
あっけらかんと返事のしづらいことばかりを言う。そんな環境だから外見の割には大人びているのか。だが心臓が悪いのにそんな家族の中にいる昌が不憫になってしまう。
気がついたことがある。大樹は34歳だと言った。昌の物心ついた頃といえば、大学を卒業したばかりの頃だろう。
(そんなに若い時から? ただこうやってそばにいるだけ?)
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