第一部 「たとえ明日が来なくても」

❖ 1 ❖(表紙イラストあり)

<表紙>https://kakuyomu.jp/my/news/16817330656376621632


 青く広がる空。明るい太陽。その日差しは強くてうしおは手をかざして遠く広がる海を見た。

 深水ふかみうしお。21歳。大学3年の夏を謳歌していてもおかしくない彼は、突然独りきりになった。母と死別した父と二人暮らしだったが、心臓に欠陥を抱えていた父は手術に耐えきれなかった。

 

「葬式は要らないぞ。面倒だろうから会社にも挨拶だけでいい」

「寂しくない?」

「死んでるのにか? お前がしたいなら好きなようにすればいい。俺は気にならないから」

「でもさ、墓とかそういうの、俺知識無いよ」

 父は夢見るように言った。まるで楽園に行くことを思い描いているかのように。

「散骨がいいなぁ。どこにでもいいよ、天気のいい時に青い空の下で撒いてくれれば」

「それでいいの?」

「いいよ」

「どこの海がいい?」

「あまり人の来ないような海がいいな」


 手術前のほんの戯れのお喋りだった。医師は70%以上の確率で成功すると言っていた。

 だが父は残り30%の中に沈んでいった。

 互いにいつかこうなると思ってはいたが、それが

(今だなんて)


 仲が良かった。まるで兄弟のように父と笑いあって日々を暮らした。会社は父の在宅勤務を認めてくれていたから、送られてくるデータを空いている時間にまとめては送信していた。

 時には、動けない父に代わって汐が仕事を片付けた。会社の購買記録の精査と、見積もりを取って業者に発注。仕事が切れることは無かったが内容は単調で、父が横になっているベッドの脇で処理していくのは楽しかった。

「これってさ、インシデントになんないのかな」

「問題が起きればそうなるかもな」

「野菜とか買っちゃったり?」

「そうそう。だめだぞ、参考書なんかも」

 いつも冗談めいて話をする父子だった。


 少し感傷めいてそんな時間を思い出す。帰って、何ごとも無かったかのように暮らすことなど出来ない。今は8月の頭。3月まで休学届を出した。今は友人たちに会うのも鬱陶しい。

『ひとり暮らしだろ? 泊りに行くよ』

それは嫌だった。まだあの家は自分と父の聖地だ。

 あと一週間はここで過ごすつもりだ。現実感など、今は欲しくない。だから海を見る。ただ砂浜を歩く。



 誰かが走ってくる音が聞こえた。この浜はホテルのプライベートビーチだから人は少ない。思い切って高いホテルにして良かったと思う。宿泊客は落ち着いた年齢層が多い。

 自分には関係のない足音……のはずだった。

「見つけた!」

 後ろから突然抱き疲れて、前につんのめりそうになる。腰に回った手は白くて細い。

「良かった、遅いから心配したんだ」

 間違いだ、と手を振りほどいて後ろを振り返る。

 息を飲んだ。肩より長い髪が風にそよいでいる。カラーリングしているのだろう、薄いアッシュがよく似合っている。白い顔に相応しい大きな目と浮き出たような赤い唇。

(女の子……、いや、胸がないから男の子か)

 今度は前から抱きつかれた。

「もう! 何とか言ってよ!」

「きみ、俺は」

「しっ」

 汐の肩ほどにおでこがくっついている。汐の身長は172センチある。その肩からくぐもった声が聞こえた。まるで変声期前のような少年の声。

「お願い、助けて! 後ろからスーツの男が来てるでしょ」

 見れば確かにこのクソ暑い中で夏仕立てだろうとは思うが青いスーツの男が歩いてくる。

 ざくっ、ざくっ

と砂の上を歩く落ち着いた音が聞こえた。

「あいつに狙われてるんだ、きっと変態だよ! 俺、あきら、お願い、待ち合わせに遅れたふりして、恋人みたいに!」

「こ……、俺は男だぞ、きみもだろ?」

「いいから名前教えて!」

「汐だけど」

 勢いのままに名前を教えてしまう。

「うしお! 待ってたんだから!」

「お、おう、待たせて悪かったな、あきら」

 スーツの男性の足が止まる。少しふっと笑って軽く会釈をするとそのまま引き返して行った。

「行っちゃったよ」

「もう少し! 振り返ったら困るから! お願い、さっきみたいに抱きしめて」

 仕方なくその細い体を抱きしめる。バスケットをやっている自分なら、軽々と抱き上げることが出来そうだ。

「もう大丈夫だろう。少し一緒にいてあげるよ」

「うん、ありがとう」

 見上げて来た目にはきらきらと夏の光が反射して、けれど儚げだった。汐は昔の童謡を思い出していた。

『異人さんに連れられて行っちゃった』



 少し歩いて昌が立ち止った。隣を見ると真っ青な顔だ。

「どうした、具合が悪い?」

「すこし、……はしった、せい……う、」

 Tシャツの胸のあたりを掴んでうずくまりそうになる昌を、掬い上げるように抱き上げた。

「どこかで休もう!」

 そうは言っても木陰が遠い。砂はきっと焼けるように熱いだろう。

「我慢出来そう? だめなら救急車呼ぶよ!」

「うう、ん、すぐ、おさまるから」

 それでも苦しそうな顔は青くなるばかりだ。

「ぽけ、とに、くすり、」

 汐は昌を抱いたまま、熱い砂に膝をついた。昌が着ているパーカーのポケットには何もない。

「じーん、ず、」

「分かった!」

 ポケットを探るとすぐに小さなビニール袋が見つかった。

(これ……)

 粒を取り上げて迷わずに口に持っていく。

「べろ、上げて」

その下に薬を入れてやった。ニトロだ。これは水が要らない。すぐに溶けて即効性もある。みるみる状態が安定した。

 抱いたまま立ち上がる。

「すぐ近くにあるホテルに泊まってるんだ。そこに連れてってもいい? 多分ここから一番近いから」

 まだ青い顔の昌が頷く。

(父さんの飲んでいた薬だ)

 きっと心臓が弱いのだ。そう思うだけで自分の胸が苦しくなった。

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