はじめての夏

 ○月×日、夏。

 外気温は最高三十六度まで上がるらしいが、今いるこの場所はとっくにその温度まで上がっているのではないだろうか。それほどの熱気が立ち上っている。おかげで眼鏡が若干曇っている。


 私は今日、人生で初めて同人誌即売会というものに来ていた。目当てはただひとつ。SNSで偶然読み始めた小説の文庫本だ。それまで特にハマるものを持っていなかった私が昼夜を忘れてのめりこむほどに面白いその小説を、紙の本で所持できる――そう考えた瞬間にはもう即売会への行き方を調べていた。


 広大な場内には所狭しと机が並べられ、色とりどりのクロスの上に頒布物が置かれている。机と机の間の通路はひっきりなしに大きなカバンを持った人たちが行き交っている。壁際なんてセール会場か何かのように長蛇の列が作られている。ようやく確保した壁際だって長居はできない場所だ。

 スマートフォンで改めて目的地を確認する。ひらがなとアルファベットが組み合わされた特徴的な番地は覚えやすいけど思ったより探しにくい。今いる場所はカタカナだから、この辺りではないことは確かだ。人波の隙間から見える文字だけが頼りだなんて。

 ……立ち止まっても仕方ないし、そろそろ行こうかな。いつたどりくつか分からないけれど。





「ありがとうございましたー」「また来ます」

「新刊一冊ください」「はーい五百円です」


 どどどどどどどどどどどうしよう!即売会だ!本当に即売会にいるんだ!あちこちから聞き慣れた言葉が聞こえる!というか『新刊一冊ください』のほうが言い慣れてるんだけど!?

 スペースのパイプ椅子に座りながら一人にやけが止まらない。目の前には初めて作った自分の本。周りには同じように並ぶ人々。こんなに頭の中がパニックになっているのは私だけだろうけど。


 私は今日、初めて即売会でスペース参加している。理由なんてない。そろそろ長編溜まってきたなー本でも作ってみようかなーというただの思いつきとノリと勢いでこの日まで来てしまった。自分だけが読む本として作るのもよかったけど、SNSのフォロワーさん達に後押しされて気づいたらここにいる。人間ってすごいな。


 それにしても、なかなか手に取ってもらえないものだなぁ。まぁ弱小物書きだしなぁ。宣伝もしてフォロワーさんも買いに来てくれるそうなのだけど、たぶん壁サーや企業から回ってるだろうから私のところに来るのは昼過ぎになるだろう。それまでは悠々と過ごそうかな。


「……あの、すみません」


 そう思っていたら声を掛けられた。眼鏡をかけた少し背の低い女性。ちょっと息が切れているけど大丈夫かな……もしかして気分が悪くなったとか?スタッフさん呼んだほうがいいのかな。水分くらいしか提供できないけどどうしたらいいんだろう。


「こ、こちら一冊買いたいんですけど……」

「!?」


 今何て?!何とおっしゃいました?!女神か?女神なのか?!それとも幻覚?しかも中身も見ずに買ってくださるの!?え、嘘、嘘でしょ!?これ夢!?夢オチ?!


「あ、あの……?」

「あっはい!大丈夫ですよ!八百円です!」


 現実だーーーーーー!!うわーありがとうございます本当にありがとうございます!!

 震える手でぴったりのお金を受け取り、クロスでこっそり拭いた手で本を手渡しする。女性は本を受け取ると固まってしまった。……え、もしかして買い間違えた?それともおつり必要だった?私数え間違えた?


「あ、あの!」

「は、はい!」


 女性から再び声を掛けられた。声が上ずる。うわー初参加でやらかすとか私終わってるーごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!よし謝るシミュレーションOK!!なんでもこい!!


「私……このお話すっごく好きなんです!」

「え、」


 今、何と?


「きっかけはたまたまだったんですけど……あっそうじゃなくて、えっと……とにかくすごく面白くて、いつも続きを楽しみに過ごしていて……今回本にされるとのことでいてもたっていられず買いに来たんです。本当に買えてうれしいです!!」

「あ、」


 え、今夢の中だったりする?夢オチ?


「……あっすみませんいきなり……」



「え、あ、いえ!すごく嬉しいです!続きもこれからガンガン更新しますので!」


 そう伝えると女性の顔がぱあっと明るくなった。花で例えるなら、安直だけどひまわりみたいな笑顔だ。それから女性はぺこりとおじぎをして去っていった。


 ……どうしよう。すごく嬉しい。本当に読者がいてくれたんだ。


 さっきまでとは別の理由で顔がにやけてしまう。不審者で通報されないかな。とにかく今日参加してよかった。ここに来れてよかった。……また本出そうかな。





 場内の人ごみに揺られながらしっかりとバッグを握る。電車の中じゃなくてよかった。向かい合って座っている人から怪訝な顔をされていたかもしれない。それくらい頬が緩んでいるのが自分でも分かっていた。

 本当は買って終わりだったのに、つい伝えたくて勢いで言ってしまった。今思い出しても恥ずかしい。でも伝えられてよかった。嬉しそうな作者さんの笑顔を見られたから。


「……また本を出されたら買いに来たいな」

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