夜に紡ぐ

「さて、今日も出掛けますか」


 そんな独り言が響いたのは夜の十時半、すでに辺りが闇に染まっている時だった。闇と言ってもこの文明社会だ。決して暗闇などではなく、電灯に照らされた夜空は紺色のような色をしており、遠くビル群が立ち並ぶ摩天楼の空は赤と紺が混ざり合った紅鳶色をしている。

 そんな夜とも言えぬ夜空に言葉を放った少女は、軽いジャージ姿にスニーカーの出で立ちで準備運動をしている。膝の屈伸運動に開脚交互屈伸運動、下腿筋郡を伸ばす運動、最後に入念に足首を回して三回上下にジャンプ。一連のルーティンをこなした少女はゆっくりと走り出した。


 一定の呼吸法を繰り返しながら少女は静まり返った住宅街を走る。桜が葉桜になり緑が青々と染まる季節だが夜風はまだ冷たい。しかしそれが彼女の火照った身体をほどよく冷ましていく。少女は脳が冴えていくのを感じた。首からかけているイヤホンはまだ使わない。まだその時ではない。


 走り始めてから三十分。少女は小さな公園で立ち止まった。徐々に速度を落とし、やがて歩行する。立ち止まった時には身体の火照りと自身の呼吸音だけが残っていた。少女は公園の小さな蛇口を捻り、勢いよく流れ出した水をごくごくと飲み干してゆく。顔を上げた少女はさっぱりとした顔で辺りを見回した。

 ほぼ何もない公園だった。遊具は昨今の事故防止の波に押されて大型のものは撤去されている。入口近くに作られた砂場と地面に埋まったタイヤ、二,三人が座れる程度のベンチ。それ以外は何もなかった。少女はぐるりと一周したあと、砂場の一点に目を向けた。砂場の中央には小さな『街』が立っていた。街と言っても、大小の円筒が乱立しているシンプルなものだ。おそらく様々な大きさのバケツのようなもので子供が作ったものだろう。しかし少女にはそれがいつしか本物の街に見えてきていた。


「……よし、次はこれにしよう」


 少女はイヤホンを耳に着けるとスマートフォンを取り出して音声入力アプリを起動させる。軽く息を吸い込む。


「――むかしむかし、あるところに砂漠に囲まれた街がありました。その街はオアシスが出現する時にだけ現れる『幻の街』と呼ばれていました」


 少女の声はソプラノのように美しく、小鳥の鳴き声のように軽やかに言葉を紡ぐ。しかしその口調は穏やかで、まるで子供に読み聞かせるように優しいものだった。


「――よし。途中まで書けた」


 言葉を紡ぎ始めてから十分ほど。少女は大きく伸びてスマホの画面に目を落とす。画面いっぱいに少女が紡いだ言葉が映し出されていた。


「さて、もうちょっと走るぞー!」


 少女は再び夜の闇へと走り出した。

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