第6話 置いていかないで!

 あやかしがどういったものなのか、白夜にはよくわからない。

 だけど包丁で刺して死ぬようなものじゃないってことくらい、なんとなくわかる。

 (だからぼくは死ねなかったの?)

 混乱する白夜をよそに、黒天狗は言葉を重ねる。

「たとえ中途半端なあやかしであっても人間とは明らかに異なる。しかもおまえ、まだ生まれて間もないな。人間になれぬのなら、せいぜい立派なあやかしとなるように務めるがいい」

「え?」

 黒天狗が言い終わるなり、ぎぃ……と車輪が回りだした。

 牛車は少し軌道を変えて白夜の横を通りすぎる。後続の鬼たちはこちらを見向きもしなかった。

 鬼の波間に茫然と立ち尽くすことしばし。

 白夜は慌てて振り返る。

 すでに黒天狗を乗せた牛車は数多の鬼に埋もれて見えず、後列もあとわずかとなっていた。

「待って!」

 見たこともない鬼たちを掻き分けて、白夜は走った。

 牛車は路面を滑るように移動する。車輪はあんなに重そうだったのに進み始めたら速い。空を飛ぶ天狗が引っ張っているからだろうか。

 必死に走って、なんとか行列の先頭までやってきた。

「黒天狗様! 待って!」

 この人に殺してもらわなくちゃ!

「お願いですから!」

 白夜は必死に声を張り上げる。

 しかし牛車は止まらない。もう黒天狗の声もなかった。これ以上、話す気はないらしい。

 この機会を逃がしたら、いつまた会えるかわからない。それまでダラダラと生き延びるのはまっぴらごめんだ。

 ここで簡単に諦めるわけにはいかないと、牛車にしがみついて走り続ける。

 息は切れて、ぜいぜいとした呼吸を肩で繰り返す。

 肺が苦しい。足がもつれる。それでも!

「待ってってば!」

 こんなに必死に呼びかけているのに、全然返事をしてくれない。

 だんだんと腹が立ってきた。答える気がないなら、こっちにも考えがある。

 白夜はきっと牛車を睨みつけ、

「えいっ」

 両手を伸ばして地を蹴った。

「こらっ!」

 すました顔で牛車の横を歩んでいた九尾が目を丸くして叫ぶ。

 そんなことを気にしている余裕なんてない。

「ううっ」

 運良くながえに体が引っかかった。  

 だけど体はくの字に折れ曲がって腹が圧迫されていたし、つま先は未だに地面を引きずっていて一瞬でも力を抜けば落ちてしまいそうだった。

 腕力のない白夜では、それも遠い未来のことではない。

「うぬぬぬっ」

 振り落とされてたまるか。

 顔を真っ赤にしてしがみつく白夜に救いの手が伸びた。

 背中から生えた黒煙である。するりと伸びて白夜の体を巻き取り、簾の前にすとんと下ろしてくれた。

「ありがとう!」

 それを見た九尾の目がつり上がる。

「不届き者が! そこに立ってはなりません!」

 異変を感じてながえを引いていた天狗が後方を振り返る。そこには簾にへばりつく白夜の姿。もう目の前には辻の切れ目である闇が大きな口を開けていた。

 慌ててキィッと轅を引く仲間に声を鳴らしたが時すでに遅し。

 すでに天狗の体は闇の中に半分消えていて、そのまま吸いこまれてしまった。

 続いて牛車が闇の中へと引きずられ、手を伸ばした九尾の姿もまたかき消えた。



 がたん!

 牛車が急停止した。

 いままで小石の跳ねすら感じなかったのに、大石にでもぶち当たったような衝撃である。

「うわっ」

 その弾みで白夜の体は簾を突き抜けて無様に転がり、顔面から何かに衝突。あまりの痛さに鼻が潰れるかと思った。

「いてて……」

 薄らと涙を浮かべて鼻をさすっていると、頭の上から大きなため息がもれた。

 次いで果実を思わせる甘い香りがふんわりと立ちこめる。

 半畳ほどの畳の上には朱色の銚子と酒杯が、しずくを垂らして乱雑に転がっているのが見えた。

「邪魔だ。どけ」

 不機嫌そうな声が降る。

 慌てて顔を上げれば、ぎろりと見下ろす瞳と目が合った。

 青みがかった紫色の瞳は竜胆りんどうを思わせたが、視線だけで人を殺せそうな険悪さがある。

 すっと通った鼻筋は人間と同じで、艶のある黒髪は床に落ちてゆるやかにうねっていた。

 この険悪そうな表情をのぞけば、都中の女性が夢中になりそうな美丈夫である。

 服は都で見るものとは違い、麻でもなければ絹でもない。硬い牛皮でできているようだ。

 だから余計に痛かったのだろうか。

 黒く艶やかで細身な作りの物だが、帯紐から下は畳いっぱいに裾が広がっている。

 それを踏んづけて股の間に転がり、腕の中にすっぽりと収まってしまったのが白夜である。

 しかし、そんなことを白夜が気にするはずもなかった。

 数度まばたきを繰り返し、端正な顔を穴が開くほど見つめる。

「黒天狗様?」

「早く、どけろ」

 黒天狗の頬がひくつき、声に凄味がこもる。

 だけど生まれた疑問は止められない。

「本当に黒天狗様なのですか?」

 重ねて問う。答えが知りたくて仕方がなかった。

 だって天狗っていったら、あれがなきゃおかしいよ!

「おまえ、耳がついてないのか」

 黒天狗は頬だけじゃなく、口元までひきつらせた。声も心なしか震えている気がする。

 でも。でもさ!

「だって鼻が……」

「鼻がなんだ!」

 どうやら堪忍袋の緒が切れたらしい。

 急に怒鳴ったと思えば、黒天狗は犬猫でも扱うように白夜の首根っこをつかんで外に放り投げた。

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