<16> ドラゴン王

 ジュワンも兵士たちも、そこにいた誰もが、目の前で起きた光景を信じることができず、目を見開いたまま、呆然としていた。その隙に、ドラゴンは飛び立つと、リリーの下の壺を兵士や魔術師に向かって薙ぎ倒した。中の熱湯が彼らに降りかかり、ようやく兵士たちは我に返った。全員が慌てふためき、一気にその場の秩序が乱れだした。ドラゴンはすぐにリリーの胴を後ろ足で器用に掴むと、強引に引っ張り、縄を引きちぎった。その勢いで、リリーを吊るしていた木柱は崩れ、これらも兵士たちを襲った。

 ドラゴンはリリーを地面に降ろすと、彼女の前に立ちはだかり、身構えた。兵士たちは慌てて弓矢を放つが、ドラゴンは雄叫びを上げ、口から火を放ち、飛んできた矢を次々と燃やしていく。


 さくらはしりもちをついた状態で、それらを見つめていた。まだ、何が起こったのか、よく理解できずに、呆然と眺めていた。しかし、ドラゴンの右足首のリングが目に入った時、やっと、あのドラゴンが自分のドラゴンだと気が付いた。だからと言って、今の状況を理解することなどできず、ますます頭が混乱した。

 ジュワンは呆然としているさくらのもとに駆けよると、首根っこを引っ張り、自分の方へ引き寄せた。我に返ったさくらは、慌てて抵抗したが、ジュワンはさくらの顔に剣を近づけた。

「動いたら命はないぞ」

 ジュワンはさくらの耳元で呟いた。自分の顔に迫る冷たく光る剣を見て、さくらは一気に血の気が引いた。一歩でも動いたら、自分の頬がざっくりと切られてしまう。そう思うと、心臓と喉が締め付けられ、息ができなくなった。自力では立っていられなくなり、自分を抱え込んでいるジュワンの腕に、無意識にしがみ付いた。

 ジュワンはさくらを引きずるように、ドラゴンの方へ振り向くと、改めて剣をさくらの首元に突き付けた。ドラゴンはそれに気が付くと、火を噴くのを止め、身構えた。

 さくらは、刃物の恐怖に気を失いそうになりながらも、前方にいるドラゴンを見つめた。怒りと不安の満ちた目で、さくらをじっと見ている。

(ああ、あの目はあの子だ・・・。私の・・・ドラゴンだ・・・)

 さくらの視界が涙で歪んできた。

(・・・陛下だったんだ・・・)

 ジュワンの腕にしがみ付いている手にぎゅっと力がこもった。

「どうしてそのような醜い姿なのか知らんが・・・」

 ジュワンはドラゴンを睨みつけると、

「この女の命が惜しければ、さっさと人の姿に戻り、指輪を渡せ!」

 そう叫び、剣の刃を更にさくらの首に近づけた。

「――ひっ・・・!」

 さくらは息を詰まらせた。ほんの少し動いただけでも、刃が喉に触れるところまで近づいている。そのままジュワンがバイオリンのように手を横に引けば、さくらの喉は簡単に引き裂かれてしまうだろう。さくらは身動きが取れなかった。恐怖で気が遠くなりかけたが、今気を失えば、体は傾き、自ら刃物の餌食になるという思いが、何とか意識を繋ぎとめた。

 ドラゴンとジュワンは睨み合った。今にも火花が飛び散りそうだった。いつまでも動かないドラゴンにジュワンは痺れを切らして叫んだ。

「本当にこの女がどうなってもいいのか!」

ドラゴンは悔しそうにうなり声を上げた。

「さっさとその指輪を渡せ!」

 ジュワンはさくらから剣を離すと、その剣で、ドラゴンの左前足を指した。その薬指の爪の先に小さな指輪が光っていた。

 剣が視界から外れ、さくらはやっと息ができた気がした。だが、気が緩んだのもつかの間、次の瞬間、地面に叩きつけられ、うつ伏せに倒れたところを、ジュワンに踏みつけられた。

「うぐっ・・・!」

 さくらはうめき声を上げた。胸が圧迫され、息が詰まる。さくらは地面の土を握り締めた。ドラゴンはそれを見て、怒りで雄叫びを上げた。

「脅しではないぞ!」

 ジュワンはドラゴンを睨みながら、さくらの長い髪を引っ張り、顔を上げさせた。のけ反ったさくらの首元に、再び剣を当てた。さくらはぎゅっと目を閉じた。

(刃先を見るな!見るから怖いんだ!)

 さくらは自分に言い聞かせると、目を固く閉じたまま、何とか声を絞り出した。

「・・・私が、『異世界の王妃』だと・・・、お忘れ、ですか・・・?」

 上手く息ができず、声は掠れていたが、ジュワンの耳には届いたようだ。

 ジュワンは冷たい笑みを浮かべながら、さくらの耳元に顔を近づけると、

「確かに、『異世界の王妃』は魅力的ですが、絶対ではないですよ。先代のように、『異世界の王妃』などいない過去は何度もあるのですから。逆にあなたのように口うるさい王妃だったら、いない方がずっといい」

 そう呟いた。

「・・・でも、私が死んだら・・・。私がこの世からいなくなったら、私とお揃いの指輪なんて、意味がなくなるのでしょう?・・・そうしたら陛下の指輪を取り上げても、何の効力もない・・・。あなたを王とする証にはならないのでは・・・?」

 ジュワンはそれを聞いて、くすっと笑うと、

「いやいや、最初は頭の悪い女かと思ったが、多少は働くようだ」

 目を固く閉じているさくらの顔に、ヒタヒタッと剣で触れた。さくらは身震いした。

「その通り。貴女は殺しませんよ。大事な交渉道具です。ノアの指輪を手に入れるために、殺さない程度に傷つけるだけです。貴女は生きていればいいだけだ。足一本、腕一本無くなったって生きてはいける・・・」

 ジュワンはそう言うと、さくらの髪を更に引っ張った。さくらの頭はぐっとのけ反ったかと思うと、次の瞬間、突然解放され、その勢いで地面に顔から倒れ込んだ。痛みで苦悶していると、上から何かパラパラと降ってきた。

「!!」

 それが自分の髪の毛だと気付き、さくらは真っ青になった。

(この人は、本当に私の両手両足をもぎ取りかねない・・・)

 さくらはノアを見た。怒りで歯を食いしばり、口の隙間から炎が漏れ出している。

(ごめんなさい・・・。陛下。役立たずで・・・)

 今になって、自分は絶対に殺されない=傷つけられないと考えた、自分の浅はかさを呪った。こんなに非力な自分が、どうして二人を助けられるなんて思ったのだろう。そう思った傲慢さをひたすら後悔した。

「どうしたノア。早く人間に戻り、指輪を持ってこい!」

 ジュワンはさくらを踏みつけたまま、剣の先をさくらの後頭部に向けた。

「陛下はもう人には戻れません」

 いつの間にか、イルハンが傍にきていた。ジュワンは訝し気にイルハンを横目で見た。

「・・・陛下は以前に呪いをかけられドラゴンの姿にされています。その呪いは完全に解けていません。自らドラゴンに変化した場合、もう二度と人には戻れないと聞いています・・・」

 ジュワンは一瞬言葉を失ったが、次の瞬間、大声で笑いだした。そして、イルハンに、

「何故それを黙っていた?」

と低い声で聞いた。笑ってはいるが、その声に怒りがこもっていた。しかし、すぐにノアに視線を戻し、

「ならば、それこそ王ではいられないではないか!心置きなく王座を渡すがいい!」

と侮蔑を込めた目を向けて叫んだ。ノアは目を爛々と光らせてジュワンを睨み、じりじりと近づいてきた。ジュワンは剣を持つ腕に力を込めた。

「ただとは言わない。王妃の右腕と交換だ」

 そう言うとイルハンに顎で指示した。イルハンは無言で、うつ伏せのさくらの右肩を押さえつけると、さくらの右手を横に伸ばした。そしてゆっくり腰から剣を抜くと、さくらの腕に近づけた。ジュワンはイルハンを満足げに見ると、再びノアの方を見据えた。

 さくらは地面に押さえつけられながらも、顔を何とかイルハンの方に向けた。向けたところで、涙に濡れ、イルハンの顔などまともに見えない。でも、彼の顔を見たかった。こんな目にあっても、どうしてもイルハンの裏切りが信じられなかった。

 イルハンはさくらが自分の方を見るのを阻止するかのように、右肩を押さえている手に力を込めた。さくらの顔はますます地面に擦り付けられ、思わず目を瞑った。その時、耳に生暖かい息がかかった。

「さくら様。呪縛の源はリングです。陛下の右足にある最後のリングを外せば、呪いは解けるはずです」

 イルハンのささやきに、さくらは目を開けた。無理やりイルハンに顔を向けようとしたが、右肩に更に圧力を感じ、顔を動かせなかった。

「チャンスは一度きりです。いいですね」

 そう言うとイルハンの顔は離れた。相変わらず、さくらの肩を押さえ、いつでも腕を切り落とせるように剣を当てたままだ。

 さくらの腕を捕られ、ノアは立ち止まった。手も足も出せないでいる悔しそうなドラゴンの姿に、ジュワンはほくそ笑むと、

「醜い化け物になってまで、王座に縋りつく気か!恥を知れ!」

そう叫び、剣をドラゴンに向けた。イルハンはこの時を待っていた。

 イルハンはスッと顔をさくらに近づけると、

「ご無礼をお許しください」

と小声で言うと同時に、さくらの瞼に唇を落とした。そして、立ち上がったと思うと、一瞬にしてジュワンの剣を跳ね飛ばし、後ろからジュワンを羽交い絞めにした。

「な、何をする!」

 ジュワンが慌ててもがいている間、イルハンはさくらに向かって、

「少しでも遠くへ!」

そう叫ぶと、ノアに向かった。

「陛下!私ごとその業火で焼いてください!!」

 イルハンは大声で叫び、ジュワンを盾にするように、ノアの前に進んでいった。

「ふざけるな!離せ!離せー!」

 ジュワンは喚き、暴れるが、イルハンの力に全く歯が立たない。イルハンはまっすくノアを見つめて、大きく頷いた。

 次の瞬間、ノアの口から真っ赤の炎が一直線にジュワンに向かって噴出した。あっという間にジュワンとイルハンは炎に包まれた。


 さくらは何が何だか分からないまま、イルハンに言われた通り、這いつくばりながら、少しでもその場から離れた。だがイルハンの叫んだ言葉に、ギョッとして振り返った。

 その時には、二人は炎に包まれていた。さくらは悲鳴さえでなかった。真っ赤な炎の中で人が燃えている光景を、まったくこの世のものと思えずに、ただただ見つめていた。

 周りでは兵士たちがパニックに陥っていた。ノアが放った炎の他に、兵士たち放り出した松明から火が燃え広がり、庭の木々だけでなく、建物にも火が燃え移っていた。さくらは這いつくばった状態のまま、燃え広がる炎すべてを、呆然と眺めていた。 

 ドシンっという大きな振動と同時に大きな影がさくらを覆った。さくらは我に返り、傍に立ったドラゴンを見上げた。さくらは起き上がろうとしたが、その前に、ノアはさくらの胴を掴むと、スッと浮かび上がった。そしてリリーのもとに行くと、もう片方の足で、彼女を掴み、空に飛び立とうとした。その時一本の矢がさくらの横をすり抜けた。

 さくらは息を呑み、その方向に振り向くと、魔術師が自分たちに矢を向けていた。その矢は白い光を帯びていた。さくらはすぐに魔術が仕込まれた矢だと気が付いた。

「陛下、あぶない!」

 さくらが叫んだのと同時に、魔術師が一瞬のけ反ったかと思うと、うつ伏せに倒れた。背中には剣が刺さっていた。その奥を見ると、火だるまの人影が立っていた。その人影は、魔術師が倒れたのを見届けると、自分も膝から崩れ落ち、地面に倒れ込んだ。

「イルハンさんっ!!」

 さくらの絶叫を残し、ノアは空高く舞い上がった。

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