<10> 脱出
さくらはベッドに横になっていたが、眠りがとても浅かった。ドラゴンが気になり、しょっちゅう目が覚めた。その度に溜息をつきながら寝返りを打つという、その繰り返しで、よく眠れていなかった。
今も深夜だというのに、目が覚めてしまった。ふーっと溜息をつくと、仰向けになりベッドの天井をぼーっと見つめ、ドラゴンのことを考えた。その時、窓の方から微かな音が聞こえた。
(もしかしたら!)
さくらは、ドラゴンが戻ってきたのかもしれないと、反射的に飛び起きると、窓の方を見た。
今夜は月明りもなく、真っ暗で良く見えないが、確かに黒い影が見える。しかしどうにも大きい。ドラゴンの大きさではなかった。よくよく見ると人影のようだ。
(・・・!ドロボー?!)
さくらは全身血が音を立てて一気に引いた。慌てて頭から布団をかぶり、息を潜めた。微かだが窓が開く音が聞こえた。全く足音はしなかったが、誰かがベッドの横に立っている気配を感じた。さくらはドクンドクンと脈を打つ心臓に手を当て、ぎゅっと目を閉じ、布団の中で固く丸まった。恐怖で心臓も頭もどうにかなりそうになった時、耳元でささやく声が聞こえた。
その言葉にさくらの恐怖が一気に吹き飛んだ。それでも信じられなくて、固まっていると、もう一度優しい声が聞こえた。
「王妃様。イルハンでございます」
さくらは恐る恐る布団から顔を出すと、小さなランプに照らされたイルハンの顔が目に入った。
「イルハンさ・・・っ!」
イルハンは慌てさくらの口を手で塞いだ。
「お静かに!」
イルハンは小声でさくらを制すると、さくらはブンブンと首を縦に振った。さくらの目にどんどん涙が浮かんでくるのを見て、イルハンはハッとし、さくらの口から手を離した。すると、さくらはイルハンに抱きついた。慌てたイルハンはすぐにさくらは引き離そうとしたが、すすり泣いていることに気が付き、躊躇してしまった。しがみ付いて泣いているさくらに、胸の奥から特別な感情が沸いてくる気がして、無意識にさくらの頭を撫でそうになった。だが、窓の方から自分に鋭く向けられている目線に気が付き、我に返った。
「さくら様、ここから出ます。お急ぎください」
そう言い、無理やりさくらを引き離すと、ランプを消した。
さくらはイルハンに引きずられるように、窓辺に急ぐと、そこにもう一つの人影があることに気が付いた。その人影は窓を乗り越え、部屋に入ってきた。さくらは思わず、イルハンにしがみ付き、後に隠れた。
「ご安心ください。陛下でございます」
「は?」
イルハンの耳打ちに、さくらは固まった。思考がまったく追い付かない。ヘイカ?へいか?
(・・・陛下?!)
固まっていることなどお構いなしに、ノアはさくらの腕を取った。
「イルハン、急げ」
「はっ!」
あれよあれよという間に、さくらはノアの背中に担がれ、縄で体を固定された。次の瞬間には、もう窓辺から飛び出し、縄をを伝って急降下していた。
「ひっ!!」
さくらは、悲鳴にならない叫び声をあげた。すると、
「目を閉じていろ。声をあげるな」
と、すぐ横にある顔から声がした。さくらはブンブンと頷くと、歯を食いしばり、しっかりとノアにかじりついた。
恐怖の時間はあっという間に終わった。地面に着くと、イルハンに手早く縄を外され、ノアの背中から降ろされた。ホッとしている暇は全くなかった。ノアはすぐにさくらの手を取ると、イルハンと共に走り出した。
「!」
さくらは突然の駆け出しに、足がもつれ、転びそうになったが、ノアの支えで持ちこたえ、必死になって一緒に走った。
正直、さくら足が遅い。その上、運動不足で長く走り続ける自信など全くなかった。しかし、俗に言う「火事場の馬鹿力」だろう。命がけの逃亡という重圧が、さくらの通常の運動能力を飛躍的に高めた。おかげで何とか無事に忍び込んだ城壁まで走りきることができた。
イルハンが城壁を伺うと、監視役に扮した近衛兵が『来るな』と合図を送ってきた。見回りが来たようだった。三人は急いで茂みに隠れた。さくらは緊張でもう吐きそうだった。見回りの兵士の足元が見えたときは、恐怖で悲鳴を上げそうになった。そんなさくらをノアは後ろから抱きかかえ、片手でさくらの口をふさいだ。
見回りがいってしまうのを見届けると、さくらはノアに引きずられるように城壁前までつれていかれた。そして、まずノアが塀に登った。次にイルハンがさくらを下から持ち上げ、塀の上からノアが引っ張りあげた。監視役に扮した近衛兵の一人が、さきに塀の外側で待っており、下からさくらを迎え、塀から降ろした。
三人が無事に塀の外に下りたとき、遠くからまた見回りの兵士が来た。ノアとイルハンはさくらを抱えるように、森の中に飛び込んだ。近衛兵がその場をやり過ごしている間に、三人は森の奥へ消えていった。
三人はひたすら小舟の待つ入江に急いでいた。ノアはさくらの手首をしっかり握り、走っていた。転びそうになる度に、逞しい腕に支えられ、さくらは何とか二人について行った。
しかし、想像以上に早く気が付かれたようで、遠くでざわめきが聞こえた。
(追手だ・・・!)
さくらは不安に駆られ、二人を見たが、二人は意に介さないようにどんどん前へ進んでいく。追手の怒号がどんどん近づいて、さくらは生きた心地がしなかった。だが、突然、その怒号が違う方向に向かい、そのままどこかに消えてしまった。
「おそらく近衛兵二人が囮となって、引き寄せているのでしょう」
不安そうにしているさくらにイルハンが耳打ちした。
三人は奥へと急いだ。しかし、暫くすると、一度消えた追手の声がまた聞こえ始めた。チッ!という舌打ちが、ノアの口から漏れた。どんなに頑張っても、さくらはノア達と同じ速度で走るのは無理だし、そろそろ体力の限界が見えてきていた。ノアとイルハン二人だけなら難なくかわせる追手も、今はどんどん近づいており、追い付かれるのは時間の問題だった。
「イルハン!」
ノアは、彼を見た。それだけでイルハンは自分のすべきことを察知した。
「はっ!陛下、では後ほど!」
そう言ったかと思うと、イルハンは一人、まったく別方向に走り出した。
「・・・イルハンさん?」
突然のイルハンの行動に、さくらは立ち止まりかけたが、ノアに手を掴まれているため、振り返ることしかできなかった。イルハンの姿はもう見えなかった。だが追手の怒号が聞こえ、まったく違う方向に消えていった。
イルハンが追手をうまく巻いたと思ったのも、僅かな時間だった。当然、相手は数組に分かれて進んでいた。一組の追手が、さくら達を捉えた。
「いたぞー!」
その雄叫びが背後に聞こえた時、さくらは心臓が止まりそうになった。もう無理だ・・・。そう断念したが、ノアは走りを一向に止めない。さくらを引っ張りながら、どんどん奥へ入っていった。
「!!」
何かに気が付いたのか、ノアは足をやっと止めた。さくらは膝から崩れ落ち、ゼイゼイと肩で息をした。そして前を見上げると、そこは崖だった。そばには川が流れており、その崖から滝に変わり、水が下に一気に流れ落ちている。
追手をかわそうと、身を隠せるような場所ばかり走っていたため、進路から外れてしまったのだ。周りはほのかに白み、夜明けが近づいてきている。ノアは滝つぼを覗いた。そしてある一点を確認すると、さくらに振り向き、力強く見つめた。もう時間がなかった。
明るくなりかけているので、さくらにはノアの顔がはっきり分かった。彼の姿形をしっかりとこの目で捉えたのは、初めてだった。年齢は自分と同じくらい。端正な顔立ちで黒い髪、イルハンほどの長身ではなく、体つきも彼ほど逞しくはないが、無駄な肉のない引き締まった体系。その彼が、ゆっくり近づいてくる。
さくらはノアが言わんとしていることに、気が付いた。青ざめて、しりもちをした状態で、じりじり後ずさりした。ノアが手を取ると、さくらは抵抗するように顔を横にブンブン振った。
しかし、ノアはさくらを無理やり立たせると、
「大丈夫だ」
と力強く言った。そして、崖の淵まで連れていき、
「絶対に手を離さないから。俺を信じろ!」
そう耳元で囁くと、さくらを抱き抱え、滝つぼに飛び込んだ。
二人が飛び込んだ後、ゴンゴの兵士や犬たちが走りこんできた。だが、誰もいないのに唖然とした。滝つぼを覗き、崖に人影が隠れていないかを調べた。犬たちも必死に匂いを追ったが、この先分からないという仕草をするので、兵士たちはこの場所を諦め、他を探すことにし、その場から走り出した。
ノアはさくらを脇に抱え、滝の裏側に這い上がった。さくらは下に降ろされると、四つん這いになり、咳き込み、軽く水を吐いた。そして、ぐったりとその場に突っ伏した。
ノアは滝の隙間から、外の様子を伺った。追手の兵達が滝つぼや崖を覗いているのが見えるが、滝の裏が洞窟になっていることに気が付いていないようだった。兵士たちが他を探すべく、森の奥へ消えていくのを確認すると胸をなでおろした。
だが、まだ難題は山積していた。もうすぐ日が昇る。太陽が完全に昇ったとき、自分はドラゴンに戻ってしまう。ここでドラゴンの姿になるわけにはいかない。人の姿のうちに、一人ここを出て、密かにドラゴンの姿に戻り、はぐれたイルハンを探し出すしか策は浮かばなかった。
ノアは、ぐったりと横になっているさくらの傍に近づいた。さくらはノアが横に来たことに気付くと、慌てて身を起こした。そして、初めてここが滝の裏側だということに気が付いた。
「大丈夫か?」
ノアの問いに、さくらは頷いた。ノアはさくらが自分に緊張していることに気付き、そっとさくらの頭を撫でた。さくらはビクッと体を震わせ、伺うようにノアの顔を覗き込んだ。
「イルハンを探してくる。お前はここで待っていろ」
ノアは立ち上がると、さくらが何か言おうとする前に、踵を返し滝へ向かった。
さくらも慌てて立ち上がろうとしたとき、無意識に滝の反対側を見た。そこは奥にずっと穴が続いていて、ゾッとするような暗さが広がっていた。さくらは思わず身震いした。
「ま、待って!待ってくださいっ!」
さくらは、滝から外を伺っているノアに駆け寄った。ノアは驚いてさくらを見た。
「お願いです!一人にしないでください!ここなんか怖い・・・です・・・!」
さくらの目に涙が浮かんできた。自分が一緒に行っては足手まといなことも十分承知している。だが、それよりもこの奥に広がる洞窟の方が薄気味悪い。それだけではない、もし追手にここがばれたら?一人ではとても対処しきれない。それにもし、自分の知らない場所で、ノアやイルハンが捕まってしまったら?その時、自分はどうしたらいい?何の術も持たないのだ。いろいろな恐怖や不安が一気にさくらに押し寄せてきて、とても一人きりの重圧に耐えきれそうになった。
涙をいっぱいに溜めた瞳で訴えられたノアは、ひどく動揺した。ノアはさくらのこの目にとても弱かった。そして何より、人の姿になってから初めてさくらから言葉をかけられた。人間の姿の自分をまっすぐ見ているさくらに、感動を覚えた。
「大丈夫だ・・・。すぐ戻る」
ノアはさくらの頬を自分の両手で包むと、額に唇を押し当てた。自分がさくらにしてもらった時のように優しく。唇を離し、さくらの顔を覗くと、さくらは目をパチクリさせて、固まっていた。その表情に思わず微笑むと、今度はさくらの頬に軽く唇を当て、
「行ってくる」
と言い残し、滝の横を潜り、外に出ていった。
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