<97> 脱走
「・・・大丈夫か?」
陽一は心配そうに香織に声を掛けた。
その声に、香織はゆっくりと振り向いた。
涙に濡れている顔を見て、陽一は罪悪感と後悔に襲われた。
香織の頭を撫でようと手を伸ばしたが、香織はその手を振り払った。
流している涙を拭うこともせず、睨むこともなく、じっと自分を見つめている目には失意がこもっている。
「・・・どういう意味があったんですか?この家に連れてきたのは・・・」
香織は涙で震える声で尋ねた。
「・・・悪かったな。俺の配慮が足りなかった」
「・・・誰にも認められなくてもいいって言ってましたけど、あれって嘘だったんですか・・・?」
「そんなわけないだろ」
「私が『原田』の家の娘じゃダメってことですか・・・?」
「だから、違うって」
香織は陽一の顔をじっと見て尋ねるが、陽一の言葉は耳に入っていないようだ。
「私は『原田』ですよ?」
「分かってる」
「今さら『荻原』って人の孫になる気はありませんよ・・・?」
「当たり前だ」
陽一の肯定の言葉は今の香織の耳には届かない。
話をしているうちに、胸の中を占めていた失望感が怒りへ変わっていった。
強い眼差しで陽一を見据えると、
「私の事はいくら否定しもいいです!でも、おじいちゃんとおばあちゃんを否定されるのは許せません・・・。おじいちゃんとおばあちゃんがいなかったら、私は生きていられなかったんだから!」
そう言い、顔を背けた。
そして、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「『荻原』って家の・・・、その家柄が無いと結婚できないって言うのなら・・・、『原田』の家が分不相応というのなら・・・」
香織は絞り出すようにそう言うと、キッと陽一を睨みつけた。
「結婚はしません!」
香織はドアノブに手を掛けると、車から飛び出した。
☆
車から飛び出した後、通りを少し走ると、丁度タクシーが停まっていた。
すぐに乗り込こむと、運転手に最寄りの駅まで乗せてもらった。
とにかく今は陽一から離れたかった。
そのまま傍にいたら、どんどん暴言を吐いてしまいそうだった。
(誰にも・・・、誰にも認められなくたっていいて言ってたくせに!)
タクシーに乗ってからも、香織はそんな思いが込み上げ、涙が溢れてきた。
結局、陽一も家柄を選ぶのか?
そう思うと裏切られた気持ちがして悔しくて涙が止まらない。
でも、本当に悔しいのは、あの荻原の老夫婦だった。
ぼんやりしていた間も、陽一との会話が微かに聞こえてきた。
その中で何度、原田の家の事を蔑もうとしたことだろうか。
その度に、陽一がさりげなく話題を変え、最後まで言葉を続けることはしなかったが、事あるごとに、原田の祖父母や母を話題に上げようとしていた。
それほどまでに遺恨の念が、あの老夫婦に宿っているのか。
そこまで酷く思われている人の孫に、どうしてなれようか?
(無理だ・・・。あそこの家の敷居は二度と跨ぎたくない・・・)
香織は涙を拭おうと、バッグからハンカチを取り出した時、ふとタクシーのサイドミラーが目に入った。
(げ!)
そこに映っているのは、陽一の車だった。
(うそ!追ってくる!)
衝撃で香織の涙はヒュッと引っ込んだ。
心臓は急激に早くなり、バクバクしてきた。
後部座席から運転席にしがみ付くと、
「あ、あの、い、急いでもらっていいですか?電車の時間がっ!」
必死に運転手に懇願した。
「分かりました」
運転手はそう答えるものの、「安全運転」というステッカーに恥じないように、決して無駄に速度を上げない。
(やばい、やばい、やばい!)
香織は運転席にしがみ付きながら足踏みした。
チラッと後ろを確認すると、ピタッと陽一の車が付いてくる。
このままでは、タクシーから降りたと同時に捕まってしまう。
何とか駅に逃げ込まないと!
「お客さん、着きました」
運転手が言うや否や、お金を渡すと、
「お釣りはいりません!」
そう叫び、自分でドアを開けて飛び出した。
「香織!」
タクシーのすぐ後ろに停まった車から、陽一も飛び出してくる。
香織は振り向きもせずに、駅に走り込んだ。
駅に逃げ込んだところで、電車が来ないと逃げ切れない。
だが、天の助けか電車が停車していた。
香織が電車に飛び乗ると、扉が閉まった。
陽一は残念なことに、ICカードを持っていなかった。
普段、車移動であまり電車に乗ることがない陽一は、そんなものは携帯していない。
駅の改札を通るのに、切符を買わないと通れない。
思わぬ足止めを食らってしまい、やっとホームに駆け込んだ時には、既に電車は出発していた。
陽一はホームに佇んだまま、むなしく車両を見送っていた。
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