<96> 荻原の祖父母

香織の思考は完全にストップしてしまった。

瞬きも忘れて陽一に見入った。


「お前のお祖父さんの家だよ。アポイントは取ってある」


「アポ・・・」


香織の呆然と呟いた。


「ああ、挨拶しておいた方がいいと思って」


「アポ・・・」


香織は呆けたまま繰り返した。


「ああ、アポ」


陽一は香織の頭を撫でた。香織はハッと我に返り、陽一の手を振り払った。


「ちょ、ちょっと!何勝手なことしてるんですか?私、お父さん側の祖父母って、会ったことほとんど無いんですよ!それなのに、急に会うなんて無理ですよ!」


香織は陽一を睨みつけて叫んだ。


「悪かったよ、黙ってたのは。でも、先に教えていたら、ここに到着するまでずっと緊張し通しだろ?」


「だからって、黙ってるなんて酷いですよ!しかも、会いたくない!」


陽一は宥める様に、もう一度香織の頭を撫でると、


「ちょっと、挨拶をするだけだ」


両手で香織の頬を包むと、顔を覗き込んだ。


「結婚前提の付き合いをしている報告をするだけだ。原田の家には報告しているのに、こちらの家に報告しないのは不義理だろ?」


『結婚』


この言葉が香織の怒りをぶち壊した。


(結婚・・・前提・・・)


突然の陽一の爆弾発言に、香織の思考がまたクルクルと回りだした。

頭がまともに働かない。

そこに、追い打ちをかけるように、陽一の口づけが降ってきた。

優しく宥める様な甘いキスに、香織はあっさり陥落した。


「・・・仕方ないですね・・・」


香織は口を尖がらせて、ボソボソと呟いた。

陽一は満足気に香織を見ると、もう一度頭を撫でた。



                   ☆



大きな畳の客間に、老夫婦を前にして、心臓が口から飛び出そうなほど緊張し、喉もカラカラな状態で座っている香織を余所に、陽一はいつもの王子様スマイルを保っていた。


「改めて、遠い所によく来れました。佐田さんに、香織・・・さん」


老紳士が二人に挨拶をしてくれた。


「こちらこそ、お時間を頂戴いたしまして、ありがとうございます」


陽一が頭を下げたのを見て、香織も慌てて頭を下げた。


「いいえ、こちらこそ、佐田さんにはお礼の申し上げようもないですよ。こうして孫を連れてきてくれたのですから」


老紳士はそう言うと、香織に視線が注がれた。

老婦人も香織を一心に見つめている。

香織は居たたまれなくて、目を伏せた。


「とても綺麗な女性になったね。嬉しく思うよ」


老人の優しい言葉に思わず顔を上げたが、その声音とは裏腹に目は笑っていなかった。

その視線に香織は冷たいものを感じ、自分の体温が下がるのが分かった。

老婦人の方をチラッと見ると、相変わらず香織を見つめている。彼女の目も笑っていなかった。


本当にこの二人は自分の祖父母なのだろうか?

ほとんど会ったことがなく、初対面にも等しいとは言え、親しみを露とも感じられない目線に、香織の中に激しい疑問が沸いてきた。


「以前にお話しさせていただいた通り、香織さんとは結婚前提のお付き合いをさせて頂いております。今日は二人でご報告に上がりました」


陽一は全く動じず、いつものにこやかな笑みで話す。


「いいご縁で、嬉しいですよ。なあ、お前」


老紳士は老婦人に声を掛けた。

ジッと香織を見ていた老婦人は、ハッとして荻原の祖父を見ると、


「ええ、本当に」


と相槌を打った。

荻原の祖父は満足そうに頷くと、


「佐田さんのようなご立派な家柄のご子息と縁続きになれるとは、我が家としても歓迎ですよ」


そう言うと、香織に向き合った。


「香織・・・さん、あなたは荻原の孫でもある。これからはこの家にも顔を出しなさい」


「え・・・」


香織は上手く言葉が出ずに、狼狽えた。


「そうですよ、ちょくちょく遊びにいらっしゃい」


老婦人が横から口を出した。


「こんなに立派な方のお嫁さんになるのですから、どうせならこちらで花嫁修業をしたらどう?荻原の孫として恥を掻かないように。ねえ、あなた?」


「・・・それもいいだろう。あちらのお宅ではまともに花嫁修業もできんだろうから」


その会話に、香織の頭は真っ白になった。

何を話しているか理解できずに、ぼんやりと目の前の老夫婦を眺めた。

もはや、老爺も老婆も香織の瞳にただ映っているだけだった。


まともに返事もできない香織に代わり、陽一が上手く対応している。

香織には、そんな陽一と老夫婦のやり取りすら聞こえない。


霞みがかった世界にただ一人取り残されたように、その後の会話はほとんど香織の耳に入ってこなかった。



               ☆



どれくらい時間が経っただろうか。

気が付くと、玄関で陽一と並んで暇の挨拶をしていた。


門を出て車に乗り込むと、陽一は労いの言葉を掛けようとして香織に振り向いた。

たが、思わず言葉を飲み込んだ。


香織はハラハラと大粒の涙を流して泣いていた。

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