<92> 良心
正月休みも開けて、いつもの日常が始まった。
年が明けても陽一は忙しそうだ。
この正月を経験して、香織はこれからの自分の未来に不安と期待が一気に大きく膨らんだ。
あの佐田の家での会話で、香織の耳から離れないものがあった。
『いいお嫁さんになりそうね』
『ええ、そうですね』
陽一は本気で自分を嫁にするつもりなのだろうか?
一緒に住んでいるうえに、原田の家にまるで婿のような顔をしてやって来た。
しかも、自分の母親と祖父まで連れて。
その状況を考えると、自分との将来を真面目に考えているのだろうと思われる。
それに、佐田家に連れて行かれたのは、ただの恋人同士としての交際を認めてもらうためではなく、その先を見越してのことだということも、頭の中では理解できた。
そう思うと期待に胸がはち切れそうになる。
だが、
(ラスボス・・・、怖すぎる・・・)
正月の正則の自分を睨みつけた顔を思い出すと、身震いしてしまう。
あれは、絶対に認めていないし、この先も認めるつもりは無い。
周りが認めても自分だけは絶対許さないと言わんばかりだった。
果たして、反対を押し切って嫁になっても、佐田家で上手くやっていけるのか・・・。
正則の事を考えると、今度は不安で胸が押し潰されそうになる。
一度思いを巡らすと、期待と不安が忙しく交互にやって来て、頭の中でぐるぐる回り、結果、
「・・・プロポーズもされてもいないのに、考えるだけ無駄か・・・」
という結論に落ち着き、平静を取り戻す。
そんなことを繰り返していた。
そんなある日、小一時間の残業後、帰宅しようとすると、1階のロビーで会長の正則を見かけた。
香織は息が止まりそうになった。
頭が真っ白になり、早く立ち去った方がいいか、このままエレベーターを降りずに7階に戻ろうかと、一瞬の迷ってしまった。その迷いが命取りになった。
エレベーターの中の香織と会長の目が合ってしまった。
香織は逃げる術を失い、青くなってエレベーターを降りると、正則に向かって頭を下げた。
正則は傍にいた社員らを待たせ、ゆっくり香織の方に向かってきた。
頭を下げている香織の前で立ち止まると、
「お疲れ様」
と、香織に話しかけた。とても労いの言葉とは思えないほど低く、冷たい声だった。
「・・・お疲れ様でございます・・・」
香織は頭を上げることなく、何とか声を振り絞って答えた。
「本当はゆっくり君とお話ししたいと思っているんだけどね。なにせ、陽一がうるさいからね・・・」
頭を下げたままの香織に、正則の厳しい口調ではないが、小さく低く、そしてまるで独り言のような声が降り注ぐ。
「一言だけ言わせてもらうよ。こちらのお願いだ」
香織は前で合わせている手が震えた。とても顔を上げることができない。
「はい」という返事すら、喉が震えて出てこなかった。
「陽一は佐田の跡取りだ。それは、分かるね?」
「・・・」
「それをちゃんと理解したうえで、今後の身の振り方を考えてくれたまえ。君の良心に期待しているよ」
「・・・」
「では、お疲れ様。気を付けてお帰りなさい」
そう言うと、待たせている社員のもとに戻っていった。
香織はその間、頭を上げることが出来なかった。
自動ドアの開く音が聞こえて、正則がとうに外に出たであろうと思われるのに、頭を上げることが出来なかった。
そして、気が付いたら、涙が数滴、床を濡らしていた。
☆
香織はふら付く足取りで、陽一のマンションに帰ってきた。
家の中は暗く、まだ陽一は帰っていない。
香織は電気も付けず、フラフラっとリビングに入ると、崩れるようにソファに座った。
正則の圧力は想像以上だった。
怒鳴るような厳しい口調ではなかったのに、低く冷たい声はそれ以上に効果があった。
『君の良心に期待しているよ』
自分から別れろとは、それは相手の常套手段だ。
正則と対峙すれば、そう言われるとは分かっていた。
だが、『良心』とは・・・。
良心に従うことが別れることなら、自分の存在は何なんだろう?
そんなにも自分は酷く卑しい存在なのか?
香織は拳を握りめた。
陽一とは不釣り合いだと、香織自身ずっと思っていたことだ。
だが、他人にはっきり否定されてみると、こんなにもみじめなことはない。
香織の目からまた涙が溢れてきた。
陽一が卑下することを嫌っていたが、それは本当に正しい。
自分で自分を否定してどうするのだ。
そう思い、涙を拭ったところで、部屋の電気が付いた。
「なんだ、帰ってたのか。なんで電気付けてないんだ?」
驚いたように香織を見たが、一瞬にして顔が険しくなった。
「何で泣いてる?何があった?」
陽一が香織に近づく前に、香織は立ち上がり、陽一に駆け寄った。
そして陽一の胸に飛び込むと、
「私は自分の気持ちに素直になったからここにいるんです!」
そう言ってぎゅっと抱きしめ、陽一の胸に顔を埋めた。
「自分の気持ちに・・・、自分の良心に従ってるからこそ、ここにいるんです!」
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