第2話 ファーストデイ

4月1日


仕事が続かなくなって1年ほどだろうか。先ほどまで職場だったビルを見上げた。中指を立てようとして、その哀れな姿を想像してやめる。

自分の中にエネルギーが枯渇している。むなしい朝が続いていた。


地下鉄の駅へ向けて暗い階段を降りる。

平日昼過ぎの駅を利用する人間は少ない。足音が低い天井にぶつかり反響する。


2年前までは普通の会社員であった。特別なことなく働き、それなりには努めていた。自分のことを恥ずかしく思ったことなどなく、むしろ誇らしかった。


体調を壊しただけだった。そこからはバラバラと崩れていった。気づくと会社をやめ、魂の抜けた案山子があった。

生きるために働く。ままならない体を無理やり職場へ連れて行き、ある朝に限界が来て全てを諦める。そんなことを繰り返す。何度も繰り返していた。


ホームに設置された自販機で缶コーヒーを買う。

カフェインの量が増していた。もし、酒が飲める人間であったなら、自棄になって仕事も明日も全部忘れて酒に溺れていただろう。コーヒーで済むなら平和な話だ。

線路が延びる先の暗闇がどこまでも続くようであった。


轟音と共に銀色の電車が到着する。ホームから地上へ抜けてゆく風がジャケットをなでる。

電車の乗客も多くはなく、見える範囲には3人しかいなかった。ドア横にもたれかかる。何かのメロディが車内スピーカーから流れて、ドアが閉まった。


ゆっくりと加速する。その加速に体を預けきっていた。




部屋にいた。白の壁紙に覆われた狭い立方体のような部屋であった。

自分が立つ前に小さなテーブル、両サイドに2つの扉。

テーブルには紙が置かれていた。鳥居が描かれており、裏返すと手書きの文章がある。

「欲しい物を望みたまへ、手にしたければ右へ出よ、忘れたくば左へ出よ」


黒崎はこの部屋に妙な違和感を持っていた。


扉をそれぞれ見やる。どちらも何の変哲もない木製の扉だ。

紙の表面を人差し指で撫でる。少しざらつきがあって、安物ではなさそうだ。


黒崎は文章にのせられて、自分が欲しい物を考える。金が欲しいし、エネルギーも欲しい。最近よくチェックしていた中型バイクも欲しい。漠然とした夢が広がっていく。


そんな中に少し馬鹿馬鹿しい思い付きがあった。

黒崎はポケットに重みがある状態をひどく嫌っていた。鞄を持つことにも抵抗があって、いわゆる手ぶらでいたかったのだ。

例えば、ドラマに出てくる格好いい男は何も持たずになんでも解決する。松田優作がリュックサックを背負って拳銃を構えていたら興醒めだろう。ガスが強すぎるライターだけでいい。杉下右京も古畑任三郎も手ぶらのまま、口先だけで解決を導いてくる。


身軽になりたい。全てをほったらかしてしましたいという気持ちもあった。


自分の欲求が膨らんで、そのイメージが形を成し始めたところで、右側の扉が自然に外へと開いた。

少しだけ開いた隙間からは光が見える。


黒崎は開いた扉へ近づく。


扉を押し開き、左足を部屋から出したところで違和感の正体に気が付いた。

この部屋には明かりがなかった。




黒崎は電車にいた。まだ、電車は駅を出発したばかりであった。

あたりを見渡す。先ほどいた乗客がそのまま座っている。

短い夢を見ていたらしい。空いている席に座る。疲れているにしてもあまりにも馬鹿馬鹿しい願望の旅であった。


先ほど買ったコーヒーに指をかける。少し考えて、コーヒーを持った手をジャケットの内側へ潜らせる。ぬくもりが消える。手を出すとコーヒーは無くなっていた。


今度は先ほどの缶コーヒーをイメージしながら手をジャケットに潜らせて、引き出す。

コーヒーを握っていた。


缶コーヒーのプルタブを引く。


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