第9話 亀裂
「おお、よく来たなお前達!」
以前、俺達を指導してくれた木下先生は俺達の姿を見るや、しわだらけの顔をさらにしわだらけにして喜んでくれた。
「あれが伝説の先輩達なのね……」
「そうよ、天才が四人入部してきたって、先生を大喜びさせたっていう……」
「全国の音大付属から引き手あまただったていう、神先輩達か」
先生だけかと思ったら何故か日曜だというのに、後輩達が音楽室にぎっしりと待機していた。
何だか見世物扱い?
「なんやなんや、唯だけかと思ったら自分らも大層な扱いみたいやな」
瑠子先輩はにやにやしながら俺の腕を肘でつついてきた。
「昔の話ですよ」
「今、二ノ宮はちょっといい気になってると見た」と桜が俺を指さす。
「なってねぇよ!」
「ご無沙汰してます、木下先生」
教室の入り口あたりで騒いでいる俺達を放置して三浦は先生に挨拶する。
「三浦か! 去年の全国は惜しかったな。お前のチェロは完璧だったんだが」
「いえ、全体で一つの音です。あれがあの時のあたし達への正当な評価です」
「うむ、あいかわらず謙虚だな……おっ、一ノ瀬!」
「ちーす」桜は先生に向かって敬礼のポーズ。
「元気か?」
先生は桜を見ると目を一層細め、優しい声を出す。
夏海のことで一番落ち込んだのは桜だったから、気になっていたのだろう。
「うん、割と。ねえ、先生」
「何だ」
「色々ありがとう」
「いいんだ。それでお前の気が済むなら」
「……」
桜は黙り込む。何と答えたらいいかわからないといった表情をした。
先生も口をつぐんでしまう。微妙な空気が教室に流れた。
「あ、ほら! 先生、今日は何と彼方も来てるんですよ! あの面倒くさがりの彼方が! ビオラしか能がないくせにあまり弾きたがらない彼方が! ほら、彼方ご挨拶なさいっ!」
場を和ませようと思ったのか三浦が俺に話を振った。
その心遣いは良いが俺の扱いはかなり悪い。
「二ノ宮! お前たまには顔見せろって言ったろうが!」
「痛い痛い! ちょ、先生何で俺にはいきなりヘッドロックなんすか?!」
「女子にそんなことできるか!」
「男子にももうちょっと丁寧な指導を要求します!」
「ははは、あいかわらず口の達者なヤツだ! どうだ頑張ってるか?」
「すんません、あんまり頑張ってないです」
「そうかそうか! お前はお前らしくやればいい!」
「あ、あざーすっ!」
俺は木下先生の責め苦からようやく解放された。
このすぐプロレス技をかけるとこさえなければ、最高にいい先生なんだが。
「二ノ宮、そろそろ」
桜はそう言っていつも装着している左耳のイヤホンをはずした。
両耳からイヤホンが消えた桜を見たのは三年ぶりだ。
「楽譜もってきたけど、ブラームスでいいのね」と三浦が桜を見る。
「うん、二ノ宮も準備して」
「いいけど」
俺もピアノの前に置いてあるイスに腰掛けて、ケースを開けてビオラを取り出した。
ピアノの方を見る。
夏海はもちろんいない。三浦はチェロのチューニングをしながらピアノと桜を何度も交互に見ていた。
俺と同じことを考えているのだろう。
桜はさっきからアンプのそばに行って、ごそごそ何かやっていた。
「桜、俺と三浦はいいぞ」
俺は桜の背中に声を投げた。
桜は俺と三浦の方を振り返ると、こくんとうなづいた。
「よく聴いて」
桜はそう言って、音楽プレイヤーの再生ボタンを押した。
アンプからピアノの音が聴こえてくる。
「あ」
「これは」
夏海のピアノの音だった。三年前の。
ともすれば刻んでしまいそうな難しいメロディーを巧みにつなぎ一つの線として流す。
歌うように、まるでいたずらっ子が坂道を駆け上っていくようにピアノの音がステップを踏む。
世界的にはもっと上手いピアニストはいるだろう。
それでも、こんなにも楽しそうにピアノで遊べるヤツを俺は他に知らない。
俺が、俺達が大好きだった夏海の音だった。
「う……」
三浦が嗚咽をもらした。
無理もない。俺だって誰もいなかったら泣きたかった。
「これに合わせて、演奏してほしいの」
桜はプレイヤーを停止させた後、俺と三浦を見た。
「私は何千回も何万回も聴いてたからいいけど、二人は初めてだからもう一回聴く?」
三浦はかぶりを振った。俺もいらないと答えた。
これ以上聴くのは正直ツライ。
今はアイツがいないことを嫌でも強く意識してしまうから。
「わかった。じゃあ、合わせてみよう」
桜はプレイヤーを先生に託して、自分もイスに座ってバイオリンを取り出した。
一気に緊張感が教室に充満した。
「あ、ちょい待ち」
瑠子先輩がピアノの前に立つ。
「指揮やったるわ。そうでもせんとこんな変則的なの無理やろ?」
「助かります。お前らもいいよな?」
俺は三浦と桜を見る。
二人は小さくうなづいた。
「じゃあ、センセ」
瑠子先輩の合図で、プレイヤーのスイッチが入る。ブラームスピアノ四重奏曲第三番第二楽章。
不意打ちのようにピアノが叫ぶ。
それに続いて、桜のバイオリンが音を重ねる。
すぐさまピアノが走る。バイオリンが追う。
駆け上がる。飛び跳ねる。
躍動的かつ繊細に。クレッシェンドはこうやるんだといわんばかりに夏海のピアノが微笑んだ。
一瞬の間。
桜が静かにそれを優しくうめて、俺も時間差で同じメロディーを紡ぐ。
三浦のチェロがたなびくように、音を引きつぐ。
そして、また夏海のピアノが声をあげる。
「何これ……」
「やっべ、俺鳥肌が……」
「……すごいな、自分達……。こんなん学生の音ちゃうわ……。けど……」
ふいにチェロが止まった。
「三浦?」
「唯?」
全員が手を止めて、三浦の方を見た。
古い木製アンプから夏海のピアノの音だけが鳴り続けている。
「止めてください!」
三浦は両耳をふさいで叫んだ。
先生がプレイヤーを止めた。一気に教室の中は静寂に支配される。
俺達も後輩達も皆、三浦を注視していた。
「……やっぱり無理」
三浦はそう言葉を落とすとチェロをケースにしまい始めた。
「え……」
桜が三浦の言葉を聞いて、表情をこわばらせた。
「待ってくれ、ちゃんと出来てたじゃないか?! そりゃ俺は三年ぶりだからちょっと音がぎこちなかったけど卒業式までにはちゃんと――」
「違う。彼方は悪くない。ビオラじゃない」
三浦は俺の言葉を途中で切り捨てる。
何かに失望したような目をしていた。その目は桜を見ていた。
「……」
三浦の視線を受けて、桜は唇を噛む。
「……帰る」
三浦はチェロケースを抱えて教室を出ていく。
「待ってくれ、三浦! 唯!」
俺は三浦の背中を追おうとした。
「追ったらあかんて、彼方くん」
「え? ですけど……」
「自分をごまかしたらアカンで彼方くん。アンタの耳やったらわかるやろ? 唯が何を言いたかったんか」
「それは……」
図星をつかれた。やはり耳のいい人はゴマかせない。
ましてやあの三浦に分からないはずはなかった。
「桜っちも、もう一度よう考えてみ。せやないと唯が可哀想やわ」
瑠子先輩はそう言って、音楽プレイヤーをアンプからはずし桜に返した。
「夏海いう子のピアノめっちゃ良かったわ。あんたのバイオリンも感動モンやった。天才っているもんやね」
瑠子先輩は桜の肩をぽんと叩いた後、俺の方を見てにやっと笑った。
「彼方くん」
「は、はい」
「次は最後まで聴かせてな」
「え? で、でも」
「頑張りや男の子。ほなな~」
瑠子先輩はひらひらと手を振って教室を後にした。
俺に何とかしろという意味だろう。
俺は大きく嘆息した。
見物に来ていた後輩達もぞろぞろと帰り始める。
俺は桜の隣に座った。
シャカ、シャカ、シャカ。
桜は両耳にイヤホンをして音楽プレイヤーを聴いていた。
また桜ラジオにもどってしまったのかもしれない。
シャカ、シャカ、シャカ。
桜、お前は今夏海と何を話してるんだ。
俺はもう一度ため息をつきながら、そんなことを思った。
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