第4話 先輩、噛む。
あの飲み会の一件以来、僕はずっと、それこそもう四六時中、悶々としていた。
井田チーフに絡まれているところを止めに入ろうかと悩む僕を、先輩は気づかれないように制止した。それを先輩は、僕が井田チーフから今以上の抑圧を受けないようにするためだったと言う。
そっか。先輩から見た僕は、そんなにも非力な後輩なのか…。女の人一人も助けられないなんて、情け無い。
けど、あの時僕が止めに入っていたとして、先輩の言う通り、余計に井田チーフからキツく当たられるようになることは想像できる。既に毎日の叱責に僕の精神はすり減っていて、ストレスで寝つきも悪くなっているのに、これ以上に状況が悪くなると自分がどうなるのかわからない。
不甲斐ない自分に凹んでいる僕を他所に、先輩はいつも通りに『自由奔放な』先輩だった。これまで通り僕に笑いかけてくれるし、お腹が空いたと言っては引き出しからチョコレートを取り出し口に放り込み、至福の表情を浮かべる。
井田チーフへの対応も、これまでと何一つ変わらない。一方、井田チーフにはちょっとした変化があり、先輩が近くにいるとやたら機嫌が良い。……ますます嫌悪感が増す。
何も変わらない毎日の中で、少しだけ、本当に微妙な違和感を感じるとしたら、何やら先輩が隠していることがある、ということ。
顧客への資料作成で迷うことがあり、先輩にふと声を掛けた時だった。
「すみません、ちょっといいですか?」
僕が先輩の方へ若干近づき視線を向かわせた途端、先輩は作業していた画面を瞬時に縮小してかくしてしまった。一瞬だったのでハッキリとは見えなかったが、なんとなく視界の端に入ってきた画面レイアウトは、社内でやり取りする用のメッセージ画面のように見えた。
また、定時になった途端にどこかの部署に急いで出掛け、30分経過したくらいに自席に戻ってくる、なんてこともしばしば続いた。課長に呼ばれて、別室で何か話をしている、なんてこともあった。
先輩は紛れもなくモテる。他部署からも先輩に会いに、わざわざ用事を作ってやって来る輩はしばしばいるわけで、井田チーフ以外にも、先輩に言い寄ってくる男がいつ現れてもおかしくない。
そして、先輩自身も自由人。男の人が寄ってきても拒絶することもなく、平然と接している。僕も、きっと周りの野朗供も、この人が人妻であり母であることをうっかり忘れてしまいそうになる。
まさか……社内の誰かと密会している?!
いやいやいや。僕の唯一の癒しである先輩が社内不倫だなんて、そんなこと考えたくない!でも、でも、、、先輩ならあり得るかもしれない、なんて。
以前にも増して悶々とする日々を過ごしていた僕に、突然、見慣れない名前の相手から自席PCにメッセージが届いた。相手の名前は『人事課 下村』。人事課の係長だ。
『お疲れ様です。突然の連絡で驚かせてしまい、すみません。
入社してから半年経過しましたが、職場には慣れてきましたか?
あなたの現在の状況について、気になることを耳にしました。話を聞かせてほしいので、お時間をいただけないでしょうか。
本日定時後、人事課横の会議室までお越しください。』
?????
僕、何かしたっけ…?
目立つ業績は無いものの、不祥事と呼ばれるような行いなんて何もない…はず。人事課の御厄介になるような事に身に覚えは無いものの、もしも…もしも自分で気づかない内に重大な事をしでかしてしまっていたとしたらどうしよう…。
落ち着かないまま、業務にも集中できないままに定時を迎え、指定された時刻に、指定された会議室へと向かった。
恐る恐るノックをすると、中から「どうぞお入りください。」と、落ち着いた男性の声がした。まるで採用面接かのように、「失礼します。」と、強張る手でゆっくりドアを押す。
中には面接と入社式の時に見覚えのある、優しげな雰囲気の中年男性がいた。人事課の下村係長だ。
「突然呼び出して、ごめんね。どうぞ。」
下村係長の差し出す右手に促されるまま、パイプ椅子に腰を下ろす。
「今日呼び出したのはね、君が職場で辛い思いをしているんじゃないかと、気になる話を聞いてね。僕が聞いた話が本当だとしたら、放っておくわけにはいかない。僕は君を採用した以上、君にやり甲斐を持ちながら働いてもらえるよう、環境を整える責任があると思っている。」
ここまで聞いて、最近の先輩の行動がどこに繋がっていたのか、なんとなくわかった気がした。
「あの…その話は一体誰から聞いたのでしょうか。」
僕の問いかけに、下村係長はゆっくりと首を振る。
「それは教えるわけにはいかないよ、ごめんね。でも、君の様子を見ている周りの人の中に、君を心配している人がいる、ということだよ。」
きっと、僕の予感は当たっている。
息を一つ飲み込み、気持ちを落ち着け、僕はこれまでに井田チーフから受けてきたことの一つ一つを語り始めた。できるだけ感情を出さないように努めたが、僕の声は震えて伝わっていたかもしれない。
全て話し終えたあと、一呼吸置いて、「話しにくいことを話してくれて、ありがとう。」と、下村係長は微笑んだ。
「実は、君に話を聞く前に、君の部署の課長にも話を聞いたよ。課長も井田くんの君への対応を時々目にして気にはなっていたようだけど、そこまで頻繁に起きていることというのは知らなかったらしい。気づくのが遅くなって悪かったね。」
「いえ、それは大丈夫です。こうやって話を聞いていただけただけでも助かります。」
そうこぼすと、今まで我慢してきた日々が、じんわりと目頭に集まってくるように感じた。
「実は、井田君には君のこと以外にも良くない話を聞いてね。それなりの対応をとるべきだと考えているところだよ。ただ、こういったことは慎重に調べてから判断しないといけないからね。少し時間はかかるかもしれないけど、それまで堪えてくれるかい?」
「もちろんです。このような時間を作っていただき、ありがとうございました。」
ーー僕を心配してくれる人がいる。
そのことに嬉しくて溢れそうになる涙を必死で抑え、僕は会議室を後にした。
自席に戻ると先輩が残って仕事をしていた。どこかに行って、帰ってきた僕を見て見ぬふりしているのだろうか。黙々とPCに向かっている。
「先輩、あの…」
僕が切り出そうとした瞬間、「カンちゃん?」と先輩が間を挟んだ。
「今はまだ、何も触れない方がいいよ。」
…僕は、何も言えなくなってしまった。
それから季節が次に移った頃、井田チーフが突然、別の支店に異動になった。違和感のある時期に誰かが異動になると、社内はしばらくその人の噂で溢れかえる。
「井田さんって、新人クラッシャーで有名だったもんね。」
「総務の若い子に、手出してたらしいよ?」
「飲みの席で部下を口説いてたとか…」
同期の麻生と磯部からも、「お前、大変だったんだってな。」と労いの言葉をかけられたりした。
「よかったな。上司がちゃんと人事に相談してくれてたんだろ?人事もちゃんと対応してくれて、恵まれた職場だな〜ここ。」
でも、僕は知っている。僕を救ってくれた真のヒーローは、課長でも、人事課でもない。
「先輩、ありがとうございました。」
営業先に向かう車中、二人きりの隙に、先輩に切り出した。
「僕が井田チーフからキツく当たられてるのを、助けてくれたんですよね?人事の下村係長にも、先輩が伝えてくれたんでしょう?」
先輩は黙って、ただハンドルを握っている。後輩の僕と出かける時でも、先輩は車酔いするからと、自ら運転したがる。
「でも、僕のために先輩が危険を冒さなくても…」
そう言いかけた時だった。
「カンちゃん、それは違う。」
先輩が口を挟んだ。
「勘違いしないで。私はカンちゃんのために動いたんじゃない。私ね、今まで、井田チーフの新人イビリで、何人も辞めていく人を見てきたの。辞めるだけならまだしも、先輩心をぐちゃぐちゃにされて、社会復帰するのに時間のかかる子もいた。私も入 異動してきたばかりの頃は、やたらとキツくあたられてたし。つまりね、私がアイツを気に入らなかったの。だから私のやり方で報復した。それだけのことだよ。」
厳しい眼差しのまま一息にそう言うと、先輩はあ!と道中に何か見つけたようで、「新しいドーナツ屋さんできてる!帰りに寄ってこーよ!」と、いつもの仔猫ちゃんに戻った。
強い人。
したたかな、可愛くもあり、怖い女。
先輩のことをもっと知りたいと思う憧れの反面、近づくと喰われるんじゃないかという恐怖心にも似た、変な媚薬にかかったようだ。
この時の僕はまだ、先輩にも弱い一面があるということを知らなかったんだ。
ボクのかわいい女豹さん。 しろん @kuramocchan
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