第2話 先輩、喰われる?!
僕の右1メートル以内には、小動物のように可愛らしい先輩がいる。
この先輩は可憐な見た目とは裏腹に、中身はとてつもなく自由人。大体、朝10時過ぎには「お腹空いた…」と呟き出し、11時半にはいよいよ限界になるようで、グゥ〜……と小さな音が聞こえる。普通なら恥ずかしがるところだろうが、先輩は違う。自分で笑いを堪えきれなくなり、
「今、めっちゃ聞こえたよね?!」
と、僕に聞いてくる。…言わなくてもいいのに。
でもそこが先輩らしいというか、僕はますますこの自由奔放女の沼に落ちていくのである。
そんな、ほっこり時間を織り交ぜながら流れていく僕の社会人生活1年目。しかし、大概の新採が直面するように、茨の時間もしっかりあるもので……
「ちょっといいか、神林?」
きた。いつもの試練の時間の始まりだ。
「はい。」
何を言われるだろうと身構えながら、声の主の方に、できるだけ心情が外に出ないように嫌がる足を向かわせる。そこには、明らかに不機嫌そうな顔をした井田チーフがいた。
「……これ、どう思う?」
そう言うと同時に井田チーフがデスクに投げ置いたのは、昨晩、僕が終電ギリギリまでかけて仕上げた報告書だった。
「え………。どう、というのは……………?」
それは僕が作ったのだから、どうも何もない。それで仕上がったと思って提出している。井田チーフが何を求めているのか、さっぱりわからない。
固まっている僕を見て、井田チーフは余計にイラつくようで、溜息混じり睨みつけてくる。
「どう思うかって聞いてんの。自分の意見も言えないのか?」
「…何か問題がありましたか……?」
「だから、俺はおまえの考えを聞いてんの!」
またしても大きめの溜息をあからさまにつき、声が少し荒ぶったかと思うと、続いてダメ出しが始まった。それは、文章の句読点の位置とか、改行の位置とか、それってそんなに重要なの?と感じるものばかりで、僕には井田チーフのこだわりが理解できず、馬鹿にされたような口調で説明されるのに対しただただ「はい」と「すみません」を繰り返すしかなかった。
挿入しているグラフの色のことまで波及した時だった。
「すみません、井田チーフ」
酒井先輩が近寄ってきた。
「そのグラフ、私が神林くんと一緒に作ったものなんです。なので、その点については私が修正します。御指摘の点は以上でよろしいですか?」
そう言って先輩は、井田チーフが手にしている報告書を返してと言わんばかりに、両手を差し出した。
「あ?…ああ……」
罰が悪そうに、井田チーフは報告書を先輩に渡し、今日のお説教タイムは終了した。
そのまま井田チーフが席を立ったのを見届けた後、先輩は引き出しをゴソゴソと探り、それを僕の机の方に放り投げてきた。咄嗟にキャッチした僕の手の中には、チョコレートの包が一粒あった。
「お疲れ様。さっきのグラフの部分は私がやるから、後でデータ送るね。」
いつもそうだ。先輩は僕がしんどいだろう場面で、こうやってちょっとした優しさをくれる。
その一粒の優しさを僕は口に放り込み、さっきまでの鬱憤を飲み込んで、作業に向かう。
飴と鞭。
bitter & sweet。
時々差し出されるささやかな甘さでなんとか踏ん張ってきてはいるが、最近やっと飲めるようになったブラックコーヒーより、サンマの腑より、もっとずっと苦くて、砂を噛んでるような井田チーフからの新人イビリの日々は、確実に僕の精神を蝕んでいっていた。
疲れているのに、なぜか眠れない。いつも頭痛がする。集中したくても、頭が働かない。井田チーフからの呼び出しがあると、変に汗が出てくる。
僕の変化は外にも漏れ出しているようで、酒井先輩以外にも、職場の先輩たちから度々声をかけられるようになった。
そんなある日、繁忙期が少し落ち着いてきた頃だった。課長の一声で、課内のメンバーで飲み会が開かれることになった。正直言うと、仕事以外でも職場の、いや、井田チーフの顔を見ていたくない僕にとっては、それは苦行以外の何物でもなかった。……酒井先輩と一緒にお酒を飲めるというのは、少しだけ惹かれるけれども。
飲み会の会場に着くと、皆、部長や次長、課長たちを始めとして、互いがどこに座るのか牽制をとりながらバラバラと席に着いていく。新人の僕は一番端の店員にオーダーを通しやすい、そして、井田チーフから離れた席を狙って座った。まずまずの出来だ。
先輩とは離れてしまった。これでは楽しみにしていた先輩との飲みも、台無しじゃないか。しかも、先輩の隣には、あの井田チーフが座っている。……ますます台無しじゃないか…!!
飲み会の間中、僕は周りの席の方々の話に相槌を打ちながらリアクションを取り、各テーブルのグラスの空き具合に目を配りながらオーダーを通し、運ばれてきたドリンクや料理を配り、とにかく大忙しだった。そうしながらも、先輩と井田チーフの席が気になって仕方なく、何度も何度も視界に入れてしまう。
女好きと噂される井田チーフは、先輩の隣から消して動こうとせず、ひたすら先輩のみに話しかけている。それを笑顔で受け答えしている先輩。見ていると心臓の奥の部分がギュゥっと押し潰されるような気分になる。
何を話しているんだろう?周りの雑音で、会話の内容まではわからない。
そうこうしていると、二人の姿が宴会場から消えていた。
………?!
嫌な予感がしたのと、気持ち悪くなったのもあって、僕は会場の外に出てトイレへと向かった。するとその先から、男女の話し声が聴こえてきた。
慌てて足を止め、物陰に隠れてしまったが、やはり気になりそっと、先にある光景を確認する。
「酒井ちゃんはホントかわいいね。」
壁に女を押し付ける形で、何やら男が口説いている。
「そんなことないですよー。」
女の方は男を手で押し退ける仕草をするが、表情や声色は笑っている。
「いやいや、ホントだよ。入社した時からずっと、可愛いなーって思ってたんだよ、俺。本気で狙っちゃってもいい?」
そう言って男は、女の髪を撫で、小柄な女の体を自分の胸の中に収めるようにし、耳元に顔を近づけ囁くように口説き始めた。
……………!!!!!
先輩が井田チーフに襲われてしまう!
これは、止めるべきか?!
物陰から一歩前に歩み出そうとした時だった。
井田チーフ背中越しから少しだけ覗かせた先輩と視線がぶつかった。
そして、僕は息を呑んだ。
井田チーフに気づかれないように、先輩は自らの口元に人差し指を当て、僕を制止した。
シー………ね?
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