限界

 医者が言うには、後は入院すれば大丈夫だそうだ。

 打ちどころがまだ良かったのか、意識も回復し、命にも別状はないらしい。

 ただ、神経にダメージが入った可能性がある、と言われた。


 不安だ。

「ごめんね、心配させて」


「無事で良かったよ……ずび……」


 でもこの不安は舞花には気づかれたくない。

 舞花の前ではできるだけ笑顔でいよう。

 ……泣き終わってからね。


 廊下では大吾さんが椅子で寝ていた。

 ずっと気を張っていたからか、やっぱり疲れたのだろう。

 本当に凄い。この人は。

 自分が一番不安だろうに、俺のことまで考えて……。

 本当に頭が上がらない。

「……お疲れ様です」


 俺は持っていたタオルをかけ、その場を後にした。


 それからは……まぁまぁ大変だった。

 フリーランスのピアニストとなった俺はコンサートで弾く機会が度々ある。

 人脈を広げておいて良かったと思うが、今となってはやはり大変だ。

 舞花の入院費諸々を稼がなければいけないため、バイトも必要だ。

 大吾さんが払うと言ってくれたが、流石に頼りすぎるのも良くない。

 結果的に少し助けてもらうことになった。


「太郎くん?」


「……」


「太郎くんってば」


「……えっ、あぁ、何かな?」


 つい、ぼーっとしてしまった。

 いけない、あまり舞花を不安にさせたくないのに。


「大丈夫だよ。……私の記憶力の良さ、知ってるでしょ?」


「なっ……んで?」


 ドキッとした。

 考えていたことをそのまま当てられるだけでなく、励まされてしまった。


「どうせ、私がお母さんみたいに記憶喪失になるかもー、って思ってるんでしょ? もう、顔見ればわかるんだから……もう大丈夫だよ。それに忘れたとしても……。いや、何でもない。とにかく大丈夫だから!」


「ありがとう……」


 と言っても、やはり不安は無くならない。

 神経にダメージを……その部分が少し引っかかってしまう。


「おい! 新入り! 手、止まってるぞ!」


「す、すいません!」


「注文きてるよ! 太郎くんしっかりして!」


「はい! すいません!」


 当然、バイトにも集中できずただただ時間が過ぎていく。


 そんなある日。


「どういうことですか?」


「いや、大丈夫だと思うんだけどね。一応言おうかと」


 医者から聞いた話だとこうだ。

 舞花はいつも医者や看護師のことを苗字で呼ぶ。

 医者には佐藤先生、などと言っている。

 だが、ある日を境に苗字は呼ばなくなった。

 医者には「先生」、看護師には「あの」とか「すいません」などとしか喋りかけなくなった。


 これだけなら何ともないが、これに少し引っかかった医者は舞花の普段の生活について看護師に聞いたらしい。

 看護師が言うには日常生活には異常はなかったが、他の親しい患者さんの名前もちらほら忘れているらしい。


 この話を聞いて、一気に不安が押し寄せてきた。

 いずれ俺のことも忘れそうで……

 舞花の母みたいになって、自殺してしまったら……。


 気が気ではなかった。


 とりあえず大吾さんには連絡をしておいた。

「そう……か。……きっと大丈夫だ。君もあまり溜め込むんじゃないよ。何かあったら私に言いなさい」


 そう言ってくれた。

 本当にいい人だ。

 電話を切ったあと、涙が止まらなかった。


 そのこともあってか、それからはバイトや仕事に打ち込めるようになった。

 いや、嫌なことをあまり考えたくなかったかもしれない。


 でも、つい……一人になると考えてしまう。

 この横に誰もいない日々がずっと続いてしまうのではないか、って。

 その時は舞花の言葉を思い出した。


 そうだ、大丈夫だ。

 大丈夫、大丈夫……。


「ただいまー」

「はい、おかえりー」


 今日は退院の日。

 あれから特に何もなく、退院の日になった。

 俺は舞花を迎えに行って二人で手を繋いで家に入った。


「何やってるんだ?」


 気がつけば舞花はパソコンの前に座っていた。

 何かを調べているようだが……


「ん? ほら、明日はあの日じゃん? ご飯、張り切るから楽しみにしててよ」


「いいよ、休んでなって……」


「もー、心配しすぎだなぁ、ありがとね。でも大丈夫だから!」


 カレンダーを見て気づく。

 明日は……俺の誕生日だった。


 俺の誕生日は結婚記念日よりも少し前の日にある。

 二つとも別々に祝ってもらうのはなかなか嬉しい事だ。

「……あー、じゃあ楽しみにしてるね」


「うん!」


 るんるん気分で色々調べていたため、特に気にしない事にした。


 だが、次の日。


「あれ? 今日は晩御飯作るの遅いんだな」


「あはは、ちょっと寝ててね……ごめんすぐ作るから!」


 ちょっと様子がおかしかったことが少し引っかかった。

 この日は俺の好みのものが沢山出された。

 とても楽しい誕生日になった。


 結婚記念日二日前。

 俺は腕時計を買いに来ていた。


「お……」


 舞花の好きなキャラクター(ラインにも使っていた変なキャラクター)の腕時計があった。

 あいつはこのキャラクターのものなら何でも喜ぶ、腕時計でもきっと喜ぶだろう。

 ただ、これが結婚記念日のプレゼントって聞いたら笑われちゃうかな。


 そんなことを思いながら、二日後が楽しみになった。


 結婚記念日当日。

「あれ? 起きてたのか……今日は早いな」


 舞花は先に起きていた。

 珍しい、いつもは俺が起こすのに。


「あ……」


 少し様子がおかしい。

「どうしたんだ? 寝ぼけている……のか?」


 言っている途中でよからぬ想像をしてしまう。

 そんなわけがない。

 そう自分に言い聞かせる。

「すいません。貴方は……」


 息を呑む。

 やめろ。その先は聞きたくない。


「貴方は、誰ですか?」


 頭が痛い。

 自分が立っているのか座っているのかわからない、それほど動揺していた。

 顔が熱い。


「あの……やっぱりこれって、お持ち帰りっていうやつなんでしょうか? 朝起きたら貴方の隣で寝てて……あ、でも服着ているから違う? うん?」


 何を言っているか分からなかった。

 頭に何も入ってこない。

 そうだ、これは舞花に似た別人なんだ。

 そう思った。


 でなければおかしい。

 舞花は冗談でもそんなことを言わないから。


「あっ……ぅ」


「やっぱり……大丈夫ですか? 体調が優れないように見えますけど……」


「ぃや……大丈夫だから……」


 視界が二重に見える。

 声もうまく出せない。


「あぁ、もう! 大丈夫ですか? 勝手ですけどベット連れて行きますからね!」


 誰かに体を支えられている、そんな感覚があった。

 温かい。

 そう思った。


 気がつけば、ベットにいた。

 隣には手紙が置いてある。

『風邪薬買ってきますから、安静にしててください! 帰ったら話しましょう 舞花』


 まるで他人のような敬語。

 もう背けてはならない現実がそこにあった。

 舞花は……俺のことを忘れている。


 徐々に実感として湧いてくる。

 一番怖かったことが起きてしまった。


 胸が苦しい。

 今の自分の気持ちだとか、このことを今の舞花が聞いてどう思うかとか……大吾さんにはどう言おうかとか。


 考えるだけで吐き気がする。


 もういっそ、寝ようと思ったが……寝れない。

 寝れるわけがない。


「……舞花」


 十分間が永遠の時間のように感じる。

 涙はもう一生分出た。

 現実だとは思いたくない。

 けどこの手紙がどうしても実感を呼び寄せてしまう。


ピンポーン


 突然、玄関の方からチャイムが聞こえた。


「……」

 行きたくない。


ピンポーンピンポーン


「……あぁ! もう!!」


 気づけばイライラに変わっていた。

「はい」


「配達です。山田太郎さんで間違えないですか? ハンコお願いしまーす」


 それは少し大きめの箱だった。

「……」


「はい、確認しました。ありざーっす」


 ……こんな時に誰からだよ。

 行き場のない怒りを感じていた。

 ダメだと分かっていても、どうしようもないと思ってしまう。

 だが、それを吹き飛ばすほどの衝撃があった。


「!?」


 差出人は山田舞花……そう書かれてあった。


 

 

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