第2話 拾う神がコレ①

 水琴窟すいきんくつの音色が、浜辺に打ち寄せる波の揺らぎのようなリズムで聞こえる。

 まどろむ意識が上もなく下もなく揺蕩たゆたい、人肌ほどのぬるま湯に包まれる心地ながら、息苦しさはおろか呼吸を意識させないほど穏やかで、寝返りを打っても全く抵抗を感じない。

 それは、久しく忘れていた安らぎだった。

 胸一杯に息を吸い、溜めて、長く吐く。普段は目覚ましのアラームに急かされ、意図しなければ行えない一連の目覚めの予備動作が自然と繰り返される。

 眠りを惜しみ、目覚めを渋る気持ちは露ほどもない。

 完璧な睡眠を堪能した気分だ。

 ……だったのだが、やけに頭が痛く、余韻などあったものではない。

 前日に飲酒はしていない。それに痛みの出どころは、頭と言っても脳ではなく、皮膚とか骨とかのようである。

 のっそりと上体を起こし、薄目を開ける。ぼやけた視界が二、三回の瞬きを経て輪郭を取り戻す。

 そこは、果てしない地平線、あるいは水平線。

 そうとしか言いようがない。

 天は果てしなく白く、地には暗黒に星々の煌めく宇宙が広がっていた。ガラス一枚の隔たりがあるような地面の下に、宇宙の遥かな光が散らばっている。

 水琴窟の音色の正体は、星々の瞬きのようだった。


「何だここ」


 辺りを見回しても景色が変わらない。

 よくよく見れば地上の星の位置が変わるだけで、他は驚くほど同質だった。

 本当のところ、俺は首を回していなくて、地の星の方が動いた。そう錯覚してもおかしくないほどに均質な風景が続いている。

 暴力的な解放感。

 ここはただ平坦で、無物質的で、生物が生きていけない世界だと直感した。

 根拠のない閃きを信用するタチではないが、同時に、なぜか考える余地のない事実なのだと確信している。

 にもかかわらず、焦るどころか奇妙な安堵を覚えているのも事実で、驚くほど冷静に、身を置く状況を受け入れる自分が信じられなかった。


 目醒めたな、人の子よ――


 どこからともなく発せられた声が、頭の中と空間に響き渡る。静寂から一転、未体験のステレオ音響の声がいきなり聞こえて、心臓が飛び跳ねた。


 恐れることはない、定命の者よ――


 不思議なことに、明らかに別人のものである声と、自分の境界がわからなかった。

 荘厳にして威光に満ち、耳にした者の意思にかかわらず平伏させる力を持った声――知りうる限りでは、言霊なるものが一番近い概念かも知れない。


 だが、畏怖を抱くのも無理からぬ――


 まさか、とは思う。

 不自然な上に見ず知らずの場所で、心に直接語りかけてくる、超然とした存在……。

 声の主を求めて辺りを見渡す。上下左右、前ときて後を振り向くと、それはいた。


「すなわち……私は、神だ――」

「うおっ」


 俺は小さく悲鳴を上げて、反射的に尻を地面に擦りながら後ずさった。

 この自称「神」、断りもなくいきなり現れて良いツラではない。

 その顔を例えるなら、ハワイのティキとインドネシアのバロンを足して二で割ったような風貌だった。

 いっそ清々しい悪趣味な金屏風の襟巻で照らし出された顔の部位は、一つ一つが彫り深く誇張され、禍々しく歪んだ唇に沿って四角い歯が整然と並び、口の端に曲がりくねった牙が伸びている。目はサイケデリックな楕円模様を描いてつり上がり、深紅の面貌を囲うように生えた獣毛のたてがみには黄金の鏡があてがわれ、見事な木彫りの長大な兜を被っていた。

 顔面だけで情報量が多すぎる。


「どうした――驚いて声も出ないか――?」


 そりゃ驚きますがな。

 ただ、声音は見た目より大人しく穏やかなのが救いだった。強面に気圧されて強張っていた筋肉が僅かに弛緩し、ギリギリと音を立てながらだが、俺は錆びたブリキ人形のようにぎこちなく頷いた。


「ここがどこで、なぜここに居るか知りたい――そうだな――?」


 再び頷く。さっきよりはスムーズに首を動かせた。


「よかろう――私の語り、それすなわち神託である――心して聞け――」


 くるりとは踵を返す。

 目の前から遠ざかるその背中は例えるまでもなく、女性だった。


「ん?」


 アルビノの、身体から色素の抜けた華奢な風体。透けそうな布のワンピースの裾がふわりと翻ると、どこかで嗅いだような甘い香り。両手両足にかけられた四本の手錠をジャラジャラと鳴らしている。

 それが馬鹿デカい木製のハリボテ――厳つい仮面の裏に張りついている。

 背中は逆に隙だらけすぎる。

 面に遮られた先、が向かう先に机があった。

 重厚で艶のある書斎机を前にして再びこちらを向き、神妙な面持ちで革張りのオフィスチェアに腰かける。卓上のマイクをタップしてチェックし、角度を整え……。

 そのデスクの上には赤黒く汚れたトラックの模型が飾ってあって……。


「んんん?」


 記憶がフラッシュバックする。

 迫り来るヘッドライト、トラックが哀れな男を轢く一歩……というか車輪一回転手前で踏み止まった。

 哀れな男は釈然としなかったが、生きていることに感謝した。

 そこに現れた白い影。

 その手に握られた物。

 さっきから続いている頭痛の正体が、次第にはっきりしていった。


「汝はトラックに轢かれて、し――」


 真っ直ぐに俺は神の仮面に手をかけた。


「って近っ――!?」


 微塵も荘厳でない素っ頓狂な声を上げる「神」をよそに、俺は仮面を力一杯に剥がそうと、体重を乗せて引っ張る。


「あだだだ――! ヤメッ――! 皮ッ――! 剥がれッ――!」

「何が皮だ!? 面の皮か!? 化けの皮だろうが!?」

「いや痛い――! これマジ洒落にならなッ――!」


 肌を隠すように張ったガムテープを一斉に剥がす感触がした。

 ベリッ、と、無慈悲に剥がれる音は、バラエティ番組ならカメラを切り替えて三回繰り返すタイプの、聞いてて胸がすく耳当たりだった。


「あああーーーーーッ!?」


 偽りの顔を失った本体が苦悶に叫んで、本物の顔を押えて地をのたうち回る。果てがないとも思える地面を何往復も転がり回って、無いと思っていた壁にドンドンぶつかっている。

 そのうち、何か物にもぶつかり、倒し、白と宇宙の空間が一変した。

 何のことはない。俺が居たのは広めの応接間のようで、大仰な雰囲気を作っていたのはプロジェクションマッピングの装置……にしてはただの水晶玉のようだが、それが部屋に投影する景色だったのだ。

 息も絶え絶えになるまでそれは転がり、受けた苦痛が鎮まるまで一しきり叫び倒した後、すっくと立ち上がり、それはこちらを睨みつけた。


「神罰下したぞ貴様ァーッ!!」

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