第17話 ボーカルの歌声 下

「……ユーキ」


 巧美は酔っ払ったみたいにふらつき、自分の額を手で押さえる。

 うつむき気味に俺を見つめるその瞳は濡れて、頬が赤く染まっていた。


「あー、ほんと。超能力って、マジなんだ」


 眉間に皺を刻んでるのは、内から沸き起こる感情に戸惑っているからか、理性で抗おうとしているからか。

 自分の心が変わっていくことを認識した人間に魔眼をかけるのは、巧美が初めてだ。なので俺はつい興味深く観察してしまう。何の前情報もないときは会話がちぐはぐになるが、自覚していればそれなりに会話は成り立つらしい。


「なんか、ムカつく……さっきまでぜんっぜん何とも思ってなかったのに、今は凄く格好いい。近くに立ってるだけでめちゃくちゃドキドキする」

「それが魔眼の効果だからな」

「そのスカした言い方もめっちゃエロい好き」


 ディスってんのか褒めてんのかどっちだよ。

 そこで巧美の目がとろんと下がった――と、俺は急に手で押される。


「うお!?」


 ソファに尻もちをつく。

 そこに、巧美がゆっくりと接近してくる。


「これ、体が火照って、頭の芯が痺れる――考えてみたらユーキっておじさんに似てるよね。あの人みたいにちょっとくたびれた感じがして、でも大人の余裕があって、落ち着く匂いがする」


 巧美が俺の上にまたがって、すんすんと首筋の匂いを嗅ぎ始める。

 魔眼で混乱する脳が勝手な認識を作り始めている。ここまで来ると、俺を好きだという理由がでっち上げられていることにも気づいていないようだ。大体二、三分くらいか、まともに会話できたのは。


「なぁ。魔眼をかけた理由、忘れてないか」

「いいじゃん。ちょっとだけ……そのうちできなくなるんだからさ」


 柔らかい手が俺の頬を挟み、そっと唇が重ねられる。俺の膝にまたがる格好の巧美は、目を閉じてキスを繰り返す。


(ま、また殴られたりしないよな?)


 向こうから言い出したことだし、キスをしてきたのも向こうなので、俺は悪くないぞ。

 しかし、なんでこいつは魔眼をかけられるとこんなにキス魔になるんだろう。「おじさん」という存在といい、少し気になる。

 キスをしていた巧美が息継ぎをするように離れ、微笑みながら俺の頬を指先でなぞる。

 その表情はちょっと、ドキリときた。


「……キス、好きなのか」

「んー、どうなんでしょ? ふふ」


 誤魔化すように笑いながら巧美は軽くキスして、俺の首にしなだれかかってくる。清涼感と甘さが混ざったような体臭にくらっとして、気づけば俺は、彼女の脇腹に手を置いていた。


「初キスなのに、いきなりしてきたよな。なんで?」

「知りたい? あたしのこと」


 巧美が耳元でささやく。ゾワゾワと背筋を撫でるような感触のあと、俺はビクリと跳ねる。

 彼女が、俺の太ももの際どい部分を指先で触っていた。


「あたしもユーキのこと、もっと知りたいな」


 いかん、この雰囲気はいかんぞ。向こうはまったく歌う気がない上にヤル気の方は満々になってる。マジで合体しかねない。


「嬉しいお誘いは結構だけどそろそろ本題をだな」

「口ではそんなこと言ってこっちはどうなのよ。あたしにちっとも欲情してないっての?」


 それはもうさっきからバッキバキですが何か?

 思春期の男子を舐めるなよ。触れられただけで秒で勃つからな。

 とはいえこの状況は本当にまずい。

 俺にも、我慢の限界というものがある。


(もうマジでめちゃくちゃに抱いてから歌わせようかな……)


 向こうからの要請だったし、別にいいんじゃないかという気がしてくる。

 太ももを触る指先が更に際どいところに迫ってきた。これはもう向こうもOKなんじゃないのか。

 そうして彼女の脇に置いた手に力をこめた瞬間――ノイズが走る。

 記憶の中の女の子が、俺を睨んでいた。


「っ……!」


 巧美を突き飛ばす。

「きゃっ」俺に跨っていた彼女はたたらを踏むように地面に立った。


「あー、その……ほら、歌おうぜ。カラオケなんだし」


 巧美は突然のことで驚き、目をぱちくりと丸くする。魔眼がかかっていてもさすがに動揺していた。

 気まずくならないように、俺はあえて笑みを作る。


「歌ってくれよ。そうしたら惚れ直すかも」

「むっ?」


 反応した巧美はきゅぴんと目を光らせ、タッチパネルを取って選曲を始める。


「しょうがないなーもう。聞いて驚くなよー? あたしの歌声、自分でもちょっとしたもんだって思ってるんだから」


 俺に良いところを見せたい、褒められたいという感情が最優先されたようだ。

 いそいそとマイクを握る彼女は、もう魔眼をかけた理由をすっかり忘れているかもしれない。

 だけど当初の目論見は成功だろう。こうして俺がおだてれば、あがり症は発動しないようだ。


「じゃ、歌いまーす」


 イントロが始まる。俺はホッとして彼女から目を離した。別に歌声に興味があるわけじゃない。

 ボーカル志望というだけあって自信はあるのだろうけど、どうせこいつのことだから過大評価だろうと思った。こうして人前で歌ってくれるだけで十分。

 だけど、巧美が歌いだした瞬間。

 ――世界が、変貌した。


「っ!?」


 俺は弾かれたように顔を上げ、歌う彼女を凝視した。

 若干ハスキーさが混じっている個性的な歌声は、繊細さと乱暴さが同居したような、奇跡的な響きをしている。その声に一瞬で胸を鷲掴みにされていた。

 サビに入ると、彼女の声は待ってましたと言わんばかりに感情を乗せて爆発する。

 どこまでも高く、強く、それでいて繊細に歌を歌う。


(なんだ、これ)


 全身を鳥肌が包む。ただ呆然と彼女の歌を聴き、意識を奪い取られていた。

 それくらい物凄い歌声だった。

 その歌唱力は部長バンドのボーカル――安達愛良と同レベルか。いや、安達とは方向性が違う。

 安達は発声や呼吸、声の震わせ方がアマチュアを超えていて、難曲を歌い切る実力も凄かった。いわば人工的な工芸品だ。

 対する巧美の技術は甘いところがあるが、それを補って余りあるほどの感情を揺さぶる歌い方、特徴的な声を持っている。こちらは言ってみれば天然の原石。

 磨けば、本物になる。

 ぶるりと身震いしたとき、巧美が歌い終わった。唖然としていた俺に気づき、小首を傾げる。


「どうしたの? ユーキ」

「いや…………………上手かった、予想以上に」

「でしょー!」


 かろうじて感想を告げると、嬉しさを爆発させた巧美が俺の横に座る。そして頭を突き出してきた。「んっ」


「な、なに?」

「撫でて」

「……まだ切れてないのか」

「いーから撫でて」


 俺はため息を吐き、彼女の頭を撫でる。巧美は猫のようにご機嫌に目を細める。

 歌っている最中は目を離していたが、曲は五分もなかったようだ。切れるまであともうちょっとだろう。

 そうして彼女の頭をぞんざいに撫でながら、俺はさっきの歌声を思い返す。


(俺の魔眼がなくても、巧美だけで十分盛り上がるんじゃないか?)


 カラオケでこうなのだから、ライブで演奏したら凄いことになりそうな気がする。

 そして、俺の魔眼。

 全てが揃ったときの影響を想像する。

 ――気づいたら俺の体はまた、鳥肌が立っていた。


「……おい、ユーキ」

「ん? どした?」


 振り向いた瞬間、衝撃と共に目の前が真っ暗になった。


「なに勝手に人の頭を撫でてんだぁ!」

「ぐああああ!」


 俺は顔を押さえてソファに転がる。鼻頭が!鼻頭が!

 どうやら殴られたらしいことを鈍痛で察しつつ、涙目のまま巧美を見る。

 向こうも涙目で拳をわなわなと震わせていた。


「魔眼使ってあたしにスケベなことしてたな!?」

「頭撫でてただけじゃねぇか! ていうかお前からしろって言ってきたんだよ!」

「嘘だ! あたしはそんなことしない!」

「どんだけ自分に自信があんだお前は!」

「記憶が曖昧だから信用ならん……!」

「そういう効果だっつってんだろ!」


 白々しい目で見つめてくる巧美は、ふんと鼻息を吐くと腕を組んだ。


「今度から魔眼にかけられてるときは撮影しとこうかな、証拠のために」

「そうしとけマジで!」


 その代わり精神崩壊しても知らんがな!


「……で? あたしは歌えた?」

「歌えたよ! バッチリだくそったれ!」


 痛む鼻を押さえてやけくそで答えると、巧美はホッと胸をなでおろしていた。


「良かった。これでも駄目だったらマジで万策尽きたから。うまくいったなら後はなにも問題ないね。これからこの方法でよろしく、ユーキ」

「……マジっすか」


 またあの別人格みたいな巧美の世話をすることになるのか。

 そして俺はまた殴られるのだろうか。

 今後を考えて、物凄くげんなりした。

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