第16話 ボーカルの歌声 上

 俺と巧美は近場のカラオケ店に移動した。

 個室に入ってドリンクを注文する。その間、彼女はまるで借りてきた猫みたいに部屋の隅に縮こまって座っていた。

 怪訝に思いながらも、俺はタッチパネル選曲機をタクミの前に置く。


「どうぞ」

「あ、はい」


 答えたものの、そのまま巧美はじっと選曲機を見つめて固まってしまう。膝に手を置いたままで、パネルを触ろうともしない。


「どうしたよ。入れないの?」

「いやーその。なに歌おうかなって」

「ああ、そゆこと。とりあえず得意な曲とか」

「得意かぁ。どうしようなぁ。多すぎて困るなぁ、選べないなぁ」


 巧美がへらへらと笑っている。なんか軽すぎて気持ち悪い。


「じゃあバンドで演奏しようと思ってる曲とかどうよ。聞かせてくれたら俺も演奏できるかどうかわかるし」

「あ、ああ、いいね。うん、とってもグッドアイデア」


 おかしい。生意気さが微塵もない。上の空っていうか、なにか別人みたいだ。


「あー……ユーキ、ちょっと空調寒くね?」


 提案を呑んだかに見えた巧美だが、やはりパネルは操作しない。立ち上がって室内の温度調節をして座り直す。

 沈黙が過ぎる。


「だから入れろって」

「ま、待って。とりあえず飲み物きてから。あたし喉を潤してからじゃないと本調子出ない」


 彼女がそう言ったタイミングで店員さんがノックして部屋に入ってきた。ドリンクを置いて出て行ったあと、巧美は目の前に置かれたウーロン茶をじっと眺める。


「どうぞ」

「あ……ども」


 彼女はぐいとウーロン茶を飲む。ごくごくと動く白い喉が止まった後、巧美はグラスを静かに置いた。俺は何も言葉を発さず、ジェスチャーでタッチパネルを示す。無言の巧美はタッチパネルを持って操作を始める。俺はどこか鈍い指の動きを見ながら彼女の隣に腰掛ける。


(こいつ、もしかして)


 ある予想が鎌首をもたげたとき、カラオケの筐体からイントロが流れ始める。画面に映るタイトルを見てすぐに何の曲か理解した。


(最近流行ってる邦楽の、女性シンガーの曲か)


 ノリが良いし初めて聞く人でもすぐに音に乗ることができる。曲調もストレートなロックで複雑な技法はあまり使われていない。これを文化祭で演奏するつもりなのだろうか。

 一息吸った彼女が、声を発する。


「ぁぃわな……ろ……りぃ……びー、ず……てるみ……んあ……あなたの……ふみゅ」


 は?


「は?」


 俺は思わず振り向く。巧美は両手でマイクをしっかりと握りしめ、画面に流れる歌詞を必死に目で追い掛けながら歌っている。

 問題は、その歌声が物凄くぼそぼそ声なことだ。


「ゅるーして……だから、ぁなたの……ぅー……すきで……満たされな……あぁはー、も……いもい……」


(ちっさ! 声ちっさ! もいもいってなんだよ!)


 俺はソファからずり落ちそうになるのを必死に堪える。一瞬冗談かと本気で疑ったが、彼女は真面目な顔つきだ。

 なにより頬から耳までがゆでだこのように真っ赤になっている。

 自分の歌声がどうなっているのか、ちゃんと理解している。

 そうしてひとしきり歌った巧美は、マイクをそっとテーブルに置く。

 嫌な沈黙が戻った。あまりに静かすぎて壁向こうの歌が聞こえてくるくらいだ。

 混乱する俺の思考はぐるぐると空回りしていたが、軽音部の連中が言っていた言葉を思い出して、ようやく合点がいく。


「……まともに歌えないって、そういうことか」


 あのリードギタリストが言っていた、歌手がいるのにインストになってどうのこうのというのは、言葉通りの意味だったわけだ。


「せ、説明させてほしいんだけども!」


 巧美がガバっと勢いよく立ち上がり、俺の方を向く。

 その目は恥をかいたせいか、それとも違う感情があるのか、涙目になっていた。


「あ、あたしは重度の上がり症で! なんかこうなっちゃうんだけどでも初めての場所とか初めての人に聞かせるときだけだから! 何回か経験すればちゃんと歌えるから!」

「それお前、ライブ会場も客も初めての文化祭でどうしろと?」


 巧美は喉に物が詰まったかのように呻き、口元を歪める。


「さすがにそんなボソボソ声で客がキャーキャー興奮してたら怪しまれる」


 何も言い返せないのか、巧美は俯いている。


「こればっかりは俺の力でも、なぁ」


 彼女は唇を噛むだけで何も返事をしない。

 ため息を吐く。まさかこんな事情があったとは。


(軽音の連中が言ってたこと、わかるかも)


 それまでの慣習を変えようと突っかかってきた一年生が、恥ずかしくて人前でまったく歌えない小心者だったとか、それは舐められるし居場所もなくなる。

 大きな変化を起こそうというその気持ちや姿勢は認めるけれど、これではただ嫉妬で喚いているだけに聞こえてしまう。

 事実、今回の件もワガママをこじらせた結果だと、呆れられている感じだった。


(はぁ……仕方ない。ここまでか)


 自分がこんな調子だから俺を、チートを頼ったのだろう。何とか見返せると期待したのだろう。

 だけどチートを持っていようと、物事はそんな甘く行きやしない。昔の俺と同じように現実の壁を知ったのが、今の須藤巧美だ。

 俺は静かに立ち上がる。ボーカルが歌えないんじゃ、この場に残る理由もない。

 その俺の腕を、巧美がギュッと掴む。


「……待って」


 泣き出しそうな顔をしながら、巧美が俺を睨む。

 しかしそこから一言も発さず、唇を引き結ぶだけだ。


「……何だよ」

「帰るな」

「いやでも」

「帰るなつってんだろバカ!」


 ぐいと引っ張られる。そして彼女は俺のネクタイを掴み、吐息がかかるくらいに俺を引き寄せる。

 あのとき、魔眼をかけてしまったときみたいに。


「ちょっと歌えないくらいで見捨てるとかユーキの冷酷最低鈍感ムッツリ変態クズ野郎!」

「言い過ぎじゃね!?」

「歌えばいいんでしょ歌えば! 歌ってやるわよ!」


 俺の抗議を無視した巧美が、伊達眼鏡を取って投げ捨てる。眼鏡が乾いた音をたてて床に転がる。

 涙目の彼女は、しっかりと俺の目を見つめていた。


「魔眼使え。それであたしに命令して」

「は? な、なんで」

「あたしに、しっかり歌え、って。そうすればあんたに聞かせるため、素直に歌う。好きな相手なら百パーセント安心してるはずだから」


 彼女の言葉が脳に伝わり、じわじわと理解が広がる。


「……ほんとサイッテーな手段だけど。できれば使いたくなかったけど。やっぱ、人前じゃ無理っぽいから。仕方ない」


 巧美はネクタイから手を離し、深々と溜息を吐く。

 俺は唖然とするしかなかった。純粋に、驚いていた。

 魔眼は相手を俺の虜にさせ、俺への好感度と信頼度を上げる。

 それを、極度のあがり症を克服するために使うなんて、考えてもみなかった。


「お前、まさかその使い方をするために、俺を……?」

「あんたの話を聞いたときにね。相手に心を奪われている間は余計なことを考えなくて済むかなって。好きな相手のために歌う体なら、あたしもステージに立って歌える気がして……もちろん、部長のバンドに勝つために使うんだけど」


 俺は困惑しながら、マジマジと巧美を見つめる。


「そりゃ、歌えるかも、だけど……いいのか?」

「いいわけないでしょ! た、たぶんあんたとまた、キス、するかも、だし」


 頬を赤らめた巧美がそっぽを向く。濡れた瞳と恥ずかしげな表情が、実年齢より少し幼く見せる。

 なんというかこいつは時折、物凄く女の子な側面を覗かせるときがある。

 そんな表情を見せられると、こっちまで照れてしまう。


「でも、それで歌えるなら……やってやろうじゃない」


 巧美がゆっくりと俺の方を向き、拳をギュッと握りしめる。

 覚悟を、決めたらしい。

 これまで何があっても常に無反応で無感動だった自分の胸が、何かの感情に突き動かされていた。


「い、いいんだな?」

「いい。その代わりあたしに変なことさせたらマジでぶっ殺す」

「それはお前次第っていうか」

「ああ!?」

「う……わかったよ。ちゃんと歌うよう仕向ける」


 俺は眼鏡を取り、彼女と目を合わせる。

 瞬間、魔眼が発動する。

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