第2話 不良少女にキスされた

 俺は硬直しながら、自分の腹から胸あたりの柔らかい感触、そして爽やかな甘い匂いに意識が奪われていた。

 魔眼に支配された数藤巧美は、俺の体を強く抱きしめている。


「……あれ」


 須藤巧美がそっと顔を上げる。トロンとした目つきで俺を見つめ、小首を傾げた。「違う……?」


「……そっか。そうだよね。おじさんなわけない……似てるってどうして気づかなかったんだろうな。あんた、すごく格好いいじゃん」


 彼女が微笑する。心臓が跳ねる。先程までとは打って変わった女っぽい表情は、ずいぶんと色気があった。

 時間が止まったかのように静かさに、俺はハッとする。

 周囲は突然のことで誰もが硬直していた。ぽかんと口を半開きにしている。

 このままじゃまずい。


「あの! ちょっと!」


 慌てて引き剥がそうと肩を押す。

 すると須藤巧美の顔が、悲しげに歪んだ。


「でも、なんで、今なんだよ……もっと早く気づいておけば、ずっと一緒に居られるのに……どうしたらいいの」


 独り言を呟きながら更にギュッと抱きつかれる。

 ねぇびくともしないんだけど?


「お、おーい?」

「……そうだ。結婚すればいいんだ」

「……え?」


 俺の肩に顔を埋めていた須藤巧美が、ガバッと顔を上げる。

 その瞳はキラキラと輝いていた。


「結婚を前提に、あたしと付き合って」

「――は?」


 くらっとした。

 一体、なにを言い出してるんだこいつは。


「「「「えええええええええええ!?」」」」」


 クラス中が喚き始める。そりゃそうだろうよ。

 そんな騒音の中でも数藤巧美はただ俺を見つめてうっとりしている。魅了の魔眼に囚われた人間の特徴だ。

 でも、なにかがおかしい。


「あ、まだ十八じゃないんだっけ? うーん、じゃあ先に子ども作るか」

「――へ」

「既成事実作っちゃおう。デキ婚ってことで」


 俺は噴き出しそうになるのを頑張って堪えた。

 さっきから何を言ってるんだこの女は……! 魅了の魔眼にかかった奴の中でも特別におかしいんですけどぉ!?

 戸惑っていると、数藤巧美が不安そうに眉をひそめる。


「あれ。もしかして、いや? あたしじゃ駄目かな? 絶対に幸せにしてあげるんだけど」 

「ち、ちょっとこっちに来い!」

「あん」


 数藤巧美の手を引っ張って教室を出る。クラスメイトの大声を置き去りに走りながら階段を駆け下りて、誰も居ない廊下の隅に引っ張り込む。


「マジか、マジかよ、嘘だろ……」


 まったく現実についていけない。どうしてこうなった。

 魅了の魔眼をかけた相手がおかしな行動を取ることは、稀にあった。普段自分の欲望を抑制している人間ほど、タガが外れたときに普段とは比べものにならないほどの大胆さを見せることがある。

 だけど、数藤巧美ほど普段の態度とかけ離れてる奴は初めてだ。まさか教室のど真ん中であんな言動をするなんて……。

 膝に手を置いて呆然としていると、トントンと肩を叩かれる。

 無視していると、またトントンと肩を叩かれる。


「んだよちょっと待――」


 振り向いた瞬間、くすぐったい感触と共に、柔らかいものが唇に触れた。

 須藤巧美に、キスをされていた。

 廊下の片隅でその状態のまま数秒経過。

 パッと彼女が離れる。照れ笑いをしながら自分の唇を触っていた。


「あたしの、ファーストキスだよ」


 絶句する。

 ファースト? 初? お前が? そのナリで? 俺と?

 思考がまとまらず口を半開きにしていると、須藤巧美がまた俺に抱きついてくる。


「ねぇ、どうかな。結婚してくれたら、もっとたくさんのことしてあげる。全部あげる。あたしのこと好きにしていいよ」


 頭がスパークする。

 全部。それはあれか、キスが初めてってことはあっちも初めてってことでいやキスだけは好きな相手のために取っておいて下は開放的っていうパターンも無きにしもあらずだ薄い本で見た騙されるな大体この女を貰ったって何が良いんだ待て胸はでけぇぞ一考の余地――


「だから、一緒に暮らさない? ……離れたくないの」


 あまりに非現実な言葉は、時として冷静さを呼び戻す。

 俺は彼女から目を離した。この状態で五分経てば須藤巧美は元に戻る。


(ちくしょう、あんまりな展開だからすっかり忘れちまってた)


 しかし起こってしまったことは変わらない。教室で結婚を申し込まれた事実も、初キスの相手になったことも。

 この後どうするか。記憶が無くなっている間に逃げる? それとも……。


「ねぇ聞いてんの? あ、わかった。童貞だから緊張してんでしょ? ふふ、心配しないでいいよ。あたしも初めてだから。誰かと比べたりしないよ」

「んが……っ」


 頬がひくついてしまう。やっぱりそっちも初めてだったらしい。

 こうなるともう興奮より先にいたたまれなさが来てしまう。

 ああ、俺はこれからどんな顔でお前を見ればいいんだろう。あんなイキってるけどまだ処女なんだよなーうふふーって微笑ましくなっちゃう。


「返事してよ。お前、えーと、あれ、なんだっけ。お前の名前、犬飼の、うーんと」


 脱力して膝から崩れ落ちそうになる。


(そうか、俺の名前も知らなかったんだな……)


 魅了の魔眼というのは、つまるところこういう代物だ。

 好意を抱くにはそれまでの積み重ねがあって然るべきだろう。間違っても、名前も知らない相手を好きになることはない。

 だけど魅了の魔眼はその過程をすっ飛ばして、俺を好きだという感情を植え付ける。感情の裏付けとなる体験や情報がないままだから、当然相手の態度には不自然な箇所や齟齬が生じる。

 でも本人はそのことにまったく違和感も疑問も抱かない。俺に気に入られたい、触れたい、一つになりたいという願望だけで頭の中がいっぱいになる。それしか考えられなくなる。

 だから魔眼を解いた後は記憶が混乱するのだろう。動機と判断が乖離しているから脳が処理しきれず後でエラーを起こす。

 数藤巧美もそうなるのだろうが、後のことはどうでもいい。問題はこの状況だ。


「……俺の名前は犬飼勇紀だ」

「ユーキ。いい名前だね。ますます好きになるな、私の王子様」


 とろけた言葉を囁く数藤巧美が俺の脇腹を指でなぞる。ゾクゾク気持ちいい。ってアホかそんな場合じゃない。

 こいつがやっちまったことは、こいつ自身で何とかさせるしかない。経験上、それが一番効果的なことを俺は知っている。

 脇腹をなぞる彼女の手を取り、引き剥がすようにして振り向く。

 わざと目は背けず、魅了の魔眼の効果を延長させる。


「いいか、数藤巧美」


 溜息を一つ吐く。俺より背の低い数藤巧美は、純粋無垢な瞳で俺を見上げている。そこに疑心の曇りはない。


「今から教室に戻って、さっきのことは罰ゲームでした、騒がせて申し訳ありません、そう説明してきてくれ」

「え? なんで? 罰ゲームとか意味わかんない……あたし、本当にユーキと結婚するのが一番いいと思って」


 顔の良い女に面と向かって好きと言われるのは、悪くはない。ぶっちゃけ数藤巧美の顔面が好みなのは事実だ。性格も好みだったらなと何度残念に思ったことか。

 しかし俺は冷静さを維持し、緩やかに首を振る。


「これには深い理由があるんだ。頼むよ、巧美」


 名前を呼ばれた数藤巧美は柳眉を上げ、急にもじもじし始める。


「うーん、そうか……ユーキがそう言うんならまぁ別にいいけど」

「おう、頼む。俺はちょっと用事があるから後で行く」

「うん」


 にこやかに笑った数藤巧美は俺に手を振り、階段を上って教室まで戻っていく。

 見えなくなったところで、俺は廊下の隅に座り込んだ。どっと疲れた。人生最大の事件だったかもしれねぇ。


(でもこれで、本気じゃないってことになるだろ)


 魔眼の効果が効いている今、数藤巧美はきっと俺の命令通りに行動する。自分がいかに支離滅裂なことをしているのか、それを理解しているかは定かじゃないが、基本的には俺の言うことを根っから信じる。

 魅了の魔眼の真価は、実はここだったりする。

 相手を俺の虜にさせ、好意の感情一色にさせるということはつまり、無条件で相手を信頼している状態になる、ということだ。

 誰しも好きな相手のことは信じようというバイアスが働く。例え恋人が犯罪を犯していたとしても、最初は違うと疑うだろうし、何なら庇おうとする。


 魅了の魔眼にかかった相手は、俺に対する信用度が百パーセントになった状態だ。普段なら疑われたり警戒される嘘も、この状態なら通ってしまう。さすがに無茶苦茶な嘘や常識外の頼みはやんわりと拒絶されることもあるが、大抵のことは聞き届けられる。

 恋は盲目、とは、よく言ったもんだ。

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