第2話 兄弟の想い

恭太きょうた


 床に臥せって、なんともなしに庭先の花を見つめていると、兄上から呼びかけられる。


「兄上」


 体を起こして右を向くと、泥だらけの兄上の姿があった。兄上は毎日、朝早くに畑仕事に行き、昼になると一人分の食事を持ってやってくる。


「ごめんな、今日も少なくて」


 そう言って、食べ物が乗ったおぼんを床に置く。そこには、わずかな白米とお味噌汁、そして、漬物があった。


 どうして兄上はいつも謝るのだろうか。兄上は何も悪くない。親がおらず、たった一人で、弟を養うのはとても大変なことなのに。僕の前では疲れた様子など一切見せず、いつも笑顔だ。


「兄上は、ちゃんと食べたの?」


「ああ、俺はもう食べたよ」


「そう………」


 嘘だ。兄上は嘘をつくとき、必ず右頬を人差し指でかく。


「兄上、やっぱり僕も働くよ………最近は体調がいいんだ」


 この話は何度もしている。だからもう、兄上の返事は分かりきっている。


「大丈夫だって、俺一人でも十分二人で暮らしていける。それに、お前の体が悪くなったら元も子もないだろ」


 こう言って、兄上は穏やかな笑みを浮かべるんだ………僕を安心させるみたいに。


 どうすればいいのだろう、どうすれば、兄上の心の重荷を軽くできるのだろうか。


「もうこの話はいいだろ、さ、早く食え」


 兄上はそう促し、楽しそうに仕事の話を始めた。それを聞きながらご飯を食べるが、頭の中は兄上への心配事ばかりだった。


 飯を食べ終わると、兄上はまた畑仕事へ出ていった。


 横になり、先程と同じように庭先に咲いている桔梗の花を眺める。


 綺麗な青紫色が、初夏の太陽に照らされる。


 ぽちゃんっ


 水溜まりに、桔梗の花から零れた露が落ちる。


 その様子を見ながら、しばらくの間考え事をしていたらいつの間にか寝てしまっていた。


 誰かの足音がして目が覚めると、空は夕焼け色に染まっていた。


 どうやらかなり長い時間眠ってしまったらしい。


 昼と同じように、兄上は一人分の食事を持ってきた。


「ねえ、兄上」


 味噌汁を啜りながらふと思い立ち、箸と茶碗を置いて話しかける。


「ん? どうした?」


「今日さ、母上のお墓参りに行かない?」


 『母上』と口にしたとき、兄上は一瞬だけ表情を変えた。懐かしそうな、でも苦しそうな、そんな表情。


 今、兄上が感じていることは、多分僕と同じ。


 いつも優しかった母上。母上の笑顔を見ると安心した。


 僕達二人がいたずらをした時も、村の子供たちと喧嘩をして泣いて帰ってきた時も、その優しさで包み込んでくれた。


 でも、母上を思うときはいつだって、激しい憎悪の感情も込み上げてくる。


 母上は自殺した。


 その理由は、親父だった。


 親父は、僕達と母上に暴力を振るい続けた。


 忘れたくとも忘れられない痛み。親父の暴行もだけど、体が弱い僕を兄上と母上が庇って、二人が傷つくことが何よりも辛かったし苦しかった。


 そんな日々に、母上は耐えられなくなったのだろう。


「どうしたんだよ、そんな急に」


「母上のお墓参り、行ってなかったでしょ?」


 母上は心配性な人だから。多分僕達のことを心配していると思う。


 それに、伝えたいこともある。


 伝えることができないまま、亡くなってしまったから……………。


 少しの時間、二人の間に沈黙が流れる。


 静寂のなか、兄上は微笑した。




 思い体を起こして、ゆっくりと立ち上がる。


「一人で立てるか?」


「うん、大丈夫だよ…………言ったでしょ。最近は体調がいいって」


 必死に強がるが、すぐに足がふらついてしまう。


 兄上が近寄り、僕の体を支える。


「ほら、俺の肩使っていいから」


「……………ごめん、ありがとう」


 兄上の肩に手を置き、外に出る。


 清夜に光輝く月が、真っ暗な夜の闇をひっそりと照らしている。


 夜風が頬を撫でていく感触が少し気持ちいい。昼間は暑いけど、夜になると涼しくて丁度いい気候だ。


 しばらく歩くと、たくさんの石碑が置かれてある場所についた。暗闇で輝く蛍と相まって、幻想的に見える。


 その中から母上のものを探す。


「……………あった」


 『二宮しき』と刻まれた四角形のお墓。


「母さん…………」


 兄上が隣で呟く。ふとその横顔を見ると、瞳が潤んでいた。


「母さん、俺達、ちゃんと生きてるよ………毎日大変なことばかりだけど、二人とも元気にしてるから……………母さんの分も、これからも、生き続けるから………だから、安心して、いいよ

……………」


 兄上の声は途中から震えていて、最後には涙が溢れだしていた。涙を流す兄上の姿を見るのはいつぶりだろうか。


 そんな様子の兄上につられるように、僕も自然と涙が零れ出して、止まらない。


「母上………僕、母上の子供に生まれてきて本当に幸せだったよ…………健康な体で、他の人の子供として生きるより、母上の子供として生きられて、本当に幸せだから……………」


 これが、伝えたかった。


 母上はいつも僕に謝っていた。


『健康な体に生んであげられなくてごめんね』


 と。


 僕は全然気にしていなかった。母上だって好きでそうしたわけじゃないし、多分僕より辛い思いをしていただろう。


 だから、母上に負い目を感じてほしくなかった。


 体は健康とは言えないけど、心は健康だから。それだけで十分。


 心が健康なら、人は幸せになれるって、伝えたかった。


 それが今日、やっと言えた。ずいぶん時間がかかってしまったけれど…………。


 二人でひとしきり泣いたあと、一本ずつ持ってきていた桔梗の花びらをお墓の前に置いた。


「母さん、このお花好きだったよね」


「…………そうだね」


「なんで、好きだったんだろうな」


 兄上が呟いたとき、昔の思い出が頭のなかに突然浮かんできた。


 ある夏の日の記憶。


『恭太、このお花の花言葉、知ってる?』


 僕は小さく首を横に振る。


『それはね…………』


 まだ僕が小さかった頃、母上がその理由を言っていた。だけど、肝心なところが思い出せない。


 ただ、この情景を思い浮かべたとき、心が幸せになるのを確かに感じた。


「…………母上のことだから、きっと優しい理由なんだと思うよ」


 お墓を見つめながらそう言うと、兄上は小さく笑った。











 





 




 


 





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