最終話

「それまで家庭内の空気がぴりぴりしていて、家で吞気に楽器の練習なんてしている雰囲気じゃなかったんだ。妹は、その言葉を聞くなり、飛び上がって喜んで、狂ったように練習を始めた。単純なやつめ、と腹がたった。僕は、受験勉強に専念したいからと言ってレッスンを辞めた。結局、僕はあいつほど音楽に興味がなかったんだろうな」

「そんなことないでしょう。親の都合で振り回されたりしたら、腹が立って当然だと思うけど」

「そんなことくらいで動揺したりあきらめたりしてるようじゃ、結局長く続けるのは無理なんだよ。この先、もっと大変なことがどれくらい待ち構えているかわからない。そのたびにいちいち練習できなくなってたら、とてもやっていけないよ。あのとき全うな道に戻っておいて、まあよかったんじゃないかと今では思ってる」

「妹さんは、佐久間君がピアノを辞めたことをどう思ってるの?」

「自分が練習できる時間が増えて喜んでるんじゃないかな。それに毎日練習するのに忙しいから、僕のことをかまってる暇なんてないよ。

 それにあいつは、本当はピアノが好きだったんだ。でも、僕のほうが一年早く初めて、まあ一年分上手に弾けるわけだから、いつも比べられて、あまりいい顔をしていなかった。僕がピアノを辞めたから、せいせいしているみたいだよ」

 気がつくと、佐久間は香苗に顔を向けながら話していた。

 もう空に月はなかった。いつの間にか沈んでしまっていた。

 そろそろ行こうかと言われ、黙って頷く。

「離婚云々の一件から、母が心配性になってね。あまり刺激しないように気をつけてるんだ。だから、今度の市民文化祭は絶対にぼろが出ないようにしないといけないんだ」

「ぼろが出ないように?」

「無邪気に高校生活を楽しんでいる様子を見せないといけないってこと。親が信用できないから進学の学費を貯めているなんて言ったら、また騒ぎになるから」

「親から援助は受けないつもりでいるの?」

「そこまでピュアじゃないよ」

 佐久間が横文字を使うのはめずらしいので、思わず笑ってしまう。

「何がおかしいんだ」

「だって、ピュアだなんてさ」

 佐久間はちょっと顔をしかめながらも、そんなに怒ってはいなさそうだ。

「合格した後に『やっぱり入学金も授業料も払えない』なんて言われたら、たまったもんじゃないだろう。だから、一年間くらいはどうにかできる額を貯めておきたいんだ。入学したら塾の講師や家庭教師で今より効率よく稼げるだろうし」

 香苗が黙ったままでいると、佐久間は、

「教える技術を上げるためにも、発表が終わったら、また数学の勉強会しないとだな」

 と独り言のようにつぶやいた。

 入学金も、授業料も、大学へ行ってからの学費についても、香苗はほとんど考えたことはない。目の前のことで手一杯で、そういうことは受かってから考えればいいやなどと気楽に考えている。そもそも、受かれば親が出してくれるのだろう程度にしか考えていない。きっと、周りの大半の人たちも多かれ少なかれそんな様子だろう。

 そんな呑気な自分に、佐久間の何がわかるのだろうかと思う。わかることがあるとすれば、佐久間が本当に「ピアノなんてどうでもいい」と思っていたら、おそらく、自分は今、彼と歩いていないだろうということくらいだ。

「佐久間君は、それでいいの?」

「ああ。正直ほっとした部分がないわけではない。音楽なんて時間もお金もかかるし、いったん手を付けると他に何もできなくなるし。自分で言うのもなんだけど、まあ、僕は普通の人よりも、時間をかけなくてもテストでいい点採るのだけは得意だからね」

 あまりにすらすら出てきて、言い訳のようにも聞こえる。

 誰に対する言い訳なのか。対外的なものなのか、もしくは自分自身に対して、いつもそう言い続けているのか。

「まあ、こういうことだから。もう陰でこそこそするのはおしまいだ。ここんとこ、気が気じゃなかったんだから」

「はーい」

 なにが気が気ではなかったのか。今言われたことも、筋は通っていたものの、なんだかまだ全貌ではない気がする。 

 ほっとしたなんて言っているけれども、きっとそれ以上に失ったものも多かったはずだ。そうでなければ、それ以降の数年間、これほど頑なに音楽を拒んでいるわけがない。親を信用しないなどといい訳をして、貯金に精を出しているわけがない。

 彼が話したことがどこまで本心なのか、しかし、そんなことはどうでもよかった。香苗はただ、もう一度彼のピアノが聴ければいいと思った。あのピアノをもう一度聴くことができたら、そのとき彼を追いまわすのを中断するのか、もしくは今以上に追い回すようになるのかは、今は何とも言えないが。

 卒業するまで一年と数か月、何としてでも、もう一度放課後の音楽室で佐久間のピアノを聴くのだ、と強く思った。今彼の機嫌を損ねて、市民文化祭に穴をあけるわけにはいかないが、終わったら、次の作戦を練ることにしよう。

 そんなことを考えながら、ちょっとした悪戯心で、あの日聴いたベルリオーズのメロディーを、小さくハミングしてみる。二人とも前を向いているから、隣にいる彼がどんな顔をしているのかは見えない。おそらく、車の音にかき消されているだろう。

 言葉も交わさないまま、それでもこうして同じ景色を見て、同じ速さで歩いている。このときもあと数分で終わる。しかしまた明日学校へ行けば佐久間とは顔を合わせることができる。香苗には、そのことが、今までのどんなときよりもうれしく感じられた。 

――佐久間君と会えてよかった。

 佐久間の隣を歩きながら、香苗は何度も何度も、心の中でそうつぶやいた。


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夢みるころ 高田 朔実 @urupicha

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