第14話

 翌日、少々気まずい思いを抱えながら部室へ行くと、彼は駅での出来事などなにもなかったかのように過ごしていた。それ以降も、あの日一緒に帰ったのは夢だったのではないかと思えてしまうほど、なにごともなかったかのように振る舞い続けていた。

「最近、毎日練習に来てるけど、アルバイトはちゃんと行ってるの?」

「新しい人が入って、がんがん入りたいそうだから、シフトを減らしたんだ。まあ、そのうちもう来なくていいと言われるかもしれないけど」

「大丈夫なの?」

「年末年始になれば、郵便局の年賀状の仕分けや配達のバイトがあるだろうし」

「その後は?」

「新しく入った人が続かなかったり、大学生が辞めたりして、また呼び戻される可能性もあるし」

 あまりにしゃきしゃきと答えるので、心配したのが馬鹿みたいに思えてくる。

「自分で言うのもなんだけど、僕は高校生の時給でほかの大人たちよりよく働くからって、重宝されてるんだ。だから、人の心配より、自分の心配しなよ」

「私は、数学は平均点が採れればなんとか……」

 香苗の返答に、佐久間は眉間にしわをよせる。

「そんなことじゃなくて。ソロの部分、そんな弾き方だと、ソロなのか伴奏の低音パートの一部なのかよくわかんないよ。お客さんも、聴いてて混乱するよ」

「じゃあ、どうしろっていうの?」

「自分で考えれば」

「だって、考えてやってるのにダメ出しされてるんだもん」

 佐久間は黙ってしまった。怒ったのだろうか。

「じゃあ言うけど、それじゃ、ただ音を大きくしているだけだ」

 彼はセロを自分に渡すように促すと、ソロを弾く部分を取り出して、弾き始めた。

 明らかに違った。瞬時に言語化するのは難しかったが、端的に言うと、吸い込まれてしまうようだった。どうすればこんなことができるのか、香苗は悔しいというよりも,ただあっけにとられてしまう。

「トレモロ、できるようになったの……? いつの間に?」

 普通は、入部してから毎日練習して、ひと月くらい経ったころ、ようやく様になってくるものだ。彼が普通に弾いているのを聴くと、がっくりしてしまう。

「マンドリン部員になったんだから、これくらい当然だろう」

「そういう問題では……」

「そんなことより、今のでわかった? もう一回弾いてみる?」

 今彼が弾いた一連のメロディが透明な飛行機雲のようにまだその辺にあると想像してみる。その見えない線をなぞるように弾いてみる。

「こんな感じ?」

 佐久間は不服そうに首を傾げると、「もっと研究するんだね」と言った。見たいテレビがあるらしく、さっさと帰っていった。

 佐久間が去ってからしばらくすると、一年生の松井が近寄ってきた。

「佐倉さんはいいですね。佐久間先輩にレッスンしてもらえて」

 彼女は、夏休みの終わりに、香苗が佐久間を部室から追い出したと陰口を叩いていたメンバーの一人だったので、一瞬身構えてしまう。次に何が来るのか待ってみる。

 しかし、いくら待ってみても、彼女はただにこにこしているだけのようだ。

「同じ学年だから、話しやすいだけだと思うよ」

「そんなことないですよ。私、実は佐久間先輩と同じ中学校だったんです。

 私は違う部だったんですけど、吹奏楽部の友達はたくさんいたんで、厳しい人だというのはよく聞いてました。自分からはなにも言わないけど、アドバイスを求めると、同級生でもこてんぱに叩きののめされるって話で。レベルが違いすぎるのはみんなわかっていたんで、自分に喝を入れるためにも先輩に指導してもらいたいって、みんな質問しに行くときには、覚悟を決めて行っていたらしいですよ」

「吹奏楽部って、学校によっては厳しいみたいだよね。やれコンクールだとか、金賞をとったとかとらないとか、文化部なのにランニングしたり腹筋したりしてるしさ」

「はい、まさにうちの学校、そういう部だったんです」

 マンドリン部が、佐久間がいた吹奏楽部よりもレベルが高いだとか、一生懸命やっているということはなさそうだった。厳しくない場所に身を置いている分だけ、彼は楽な気分でここにいられるということなのか、もしくは彼の中で、昔と今とでは、音楽に対する気持ちが変わっているのかもしれないが。

「合唱コンクールでは毎年ピアノを弾いてて、憧れてる子も多かったんです」

「ふうん、目立ちたがり屋なんだ」

「そう見えます?」

 松井は微笑んだ。

「本人はどうでもいいと思ってても、周りが放っておかないんですよ。先輩以外の人が弾こうとすると、女子の先輩とか、同級生の怖い女の子とか、色々な面から苦情がきちゃって、けっきょく佐久間先輩が弾かざるを得ないことになっちゃうみたいで」

「違う学年の松井さんまでそんなこと知ってるんだから、よほどだったんだね」

「実は私、先輩の妹さんとけっこう仲よかったんですよ。それで色々情報が入ってきて。彼女も吹奏楽部だったんですけど」

 これはもしや、チャンスの到来だろうかと思う。

「そういえば、佐久間君って、なんで今はピアノとか、吹奏楽とかやってないの?」

 松井さんは、それを聞くなり黙ってしまった。

「ごめんなさい、人の家庭の事情について、どこまで話していいのか……、私からはちょっと……」

 ようやくそれだけ言うと、目を伏せた。

「ごめん、立ち入ったこときいちゃって、あ、もうこんな時間だ。ごめんね、引き留めちゃって」

 二人は部室に戻った。

 しかし、よく考えてみると、香苗が訊いたのは、佐久間がピアノや吹奏楽を辞めた理由だった。なぜそこで「家庭の事情」などという言葉が出てくるのか。さすがに彼の家庭の事情まで知ろうと思ってはいない。

 しかし、ここまで来てしまったからには、どうにもがまんできそうにもない。知りたい気持ちがむくむく起き上がってくる。しかし、それはあまりに深入りしすぎなのではないかと、気が引けてしまう。

 暗い夜道を歩きながら、香苗は明日以降自分はどうすればいいのか考えていた。


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