第13話

 佐久間が目の前でギターの練習をしている。

 こんな光景を見ることになるとは、一年前の香苗は、もしくは半年前、もっといえば数日前の彼女ですら想像していなかった。これでピアノを弾いているところが見られたら言うことはないが、今はそんな希望すらも贅沢に思えるほどだった。

 先日のグリーンスリーブスは途中で止まったものの、彼は、ギターもだいぶ上手だった。その週のうちに、誰もなんの文句も言えないくらい、むしろ「あなたはなんでここにいるんですか」と言いたくなってしまうくらい、流暢にギターを弾くようになっていた。あえて口にする人はいなかったが、弥生よりもはるかに上手だと、明らかにみんなからそう思われていた。

「いつからギターやってるの?」

「小学校五年生のときかな、家に置いてあったから、触り始めたんだ。中学校で上手いやつがいたから、そいつにちょっと教えてもらったりして」

 同じ調子で「いつからピアノをやってるの?」と訊いたら、すらすら答えそうなくらい自然な回答だったが、そっちのほうは、警戒される可能性が高いからやめておいた。

 五年生のときからだとすると、六年間程度はやっていることになるのだろうか。そうはいっても、ほかの楽器もやっていたのだから、時間はそれほどかけていない可能性が高い。器用なものだと思う。

 彼は、部室の本棚の隅から、埃をかぶったギター教本を取り出して、それをひたすら練習している。だいたい練習は四時から六時までの二時間だったが、最後の三十分は合奏に充てられる。彼は、一時間たっぷりと教本を練習し、少し休憩したあと、残りの三十分で課題曲を練習していた。

「教本やってるんですか。真面目ですね」

 一年生の倉木がそんなことを言うと、一見笑っているように見えながらも、なんとも、もの言いたげな表情を浮かべた。

 香苗は、後で自分にとばっちりが来るのではないかと思い、ひやひやした。

 佐久間は、合奏についても、みんなの前で意見を言うことはしない。香苗ですら、「ここはもっと改善の余地があるのにな」と思うところはあるのに、彼に気づかないはずがない。

 案の定、帰るのが一緒になるとき、駅に着く間の二十分間、「気づいたこと」を延々と語られるのが習慣になりつつある。

「まあ、僕は所詮助っ人だからいいんだけど」

「でも、私に言うってことは、私からみんなに言えってことなんでしょう?」

「それは君の判断に任せる」

 そうこうしているうちに駅に着く。お互い乗る電車が反対方向なので、降りていくホームは違う。しかし、このまま降りてしまったら負けのような気がして、香苗は懸命になんと言い返そうか考える。

「これは部活であって、プロの集まりじゃないの。みんな先生についているわけじゃないし、ほんの数年間やるだけで、それ以上続けるもんじゃないし。私だって、高校に入るまでセロなんて見たこともなかったのに、偶然が重なって弾いているだけなの。だから……」

「知ってるよ」

 横顔だと、日頃からわかりにくい表情が、よけいに読み取りにくい。

「もしかして、吹奏楽部を辞めたのは、こういうことが嫌だったからなの? みんなとはレベルが違いすぎるって……」

「違う」

「じゃあどうして?」

「君の学校ではどうだったか知らないけれど、僕がいた中学校では、吹奏楽部は三年生の文化祭で引退する決まりだったんだ」

 そんなことは、多かれ少なかれ、公立の中学校ではそうだろう。

「僕は辞めたんじゃなくて、引退しただけだ。僕だけが引退したんじゃなくて、学年全員が引退したんだ。もし僕を責めたいなら、君の友達の栗原さんも責めたらいいんじゃないかな」

「そうじゃなくて、高校で続けてないじゃない」

「栗原さんだって続けてないよ。楽器とはまるで関係ない、チアリーダー部に入っている。そういう君は、中学校の時は何部にいたんだ。少なくともマンドリン部ではなかったんじゃないか?」 

「電車行っちゃうよ」

 佐久間の乗るはずの電車は、十八時二十一分発で、時計もまさにその時間を指そうとしている。遠くから、光る車体が近づいてくる。

「そんなことよりも、せめて部員として練習に参加している間だけでも、僕の私的なことに必要以上に首を突っ込むのはやめてくれないか。練習に集中できなくなるから。僕がミスを多発するようになったら、それはマンドリン部にとってもよくないことだと思う」

 なんとも杓子定規な言い訳に、香苗はただ「はあそうですか」という顔をするしかない。そうこうしているうちに、電車は行ってしまった。

 彼は言いたいだけ言うと、自分の乗る電車が来る二番ホームへと、さっさと降りてしまった。香苗の乗る電車も、電光掲示板によると二分後に来るようだったので、慌ててホームに降りる。電車はタクシーが乗客を拾うがごとく香苗を乗せると、佐久間の姿を探す隙も与えずに出発した。

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