第11話

 あの日をきっかけに、佐久間は再びマンドリン部に来るようになった。

「学校が終わってからバイトまで間があるときに、時間調整ができて便利なんだ」

 そんなことを言いながらも、マンドリン部で代々受け継がれている、一世代前の漫画を読破しようとしている節もある。

「今までずっと図書館にいたんだけど、あそこだとなんだか気が散るんだよな」

 佐久間は、女性の司書教諭の先生によく話しかけられていた。

「それに、文化祭も終わって、みんな早く帰るから、いやすいし」

 当てはまりすぎていて、返す言葉もなかった。

 二年生が残っているのは、部活のためというよりも自宅より居心地がいいから長居しているだけだったし、一年生は合同の練習が終わると同時に去っていく。ひとまず発表が終わったので、自主練する者もなくなった。厳しい部活ではないので、そうなるのは仕方ないのだった。

 文化祭では、全部で五曲演奏した。

 マンドリンはイタリアの楽器ということで、さらばナポリなど、明るいイタリアの曲などがよく編曲されていたが、哀愁の漂うロシア民謡とも相性がいいようで、今回はそのどちらも演奏していた。クラッシック音楽もやろうということで定番のカノンを加え、対象が高校生なので、宮崎アニメメドレーなども加えた。アンコールは明日に懸ける橋だった。こちらはどちらかというと、高校生向けというよりも保護者向けだったかもしれない。

 発表があるときは、みんな盛り上がる。しかし、それが終わればもはや祭りの後であった。

「この間の文化祭だけど」

 佐久間の言葉に、香苗の表情がさっと曇る。

「なんでおびえてんの?」

「べつに、普通だけど」

 佐久間は首を傾げながら、香苗をじっと見る。

「けっこうよくなってたね」

「本当に?」

 香苗にとっては、人が増えたことが悪いほうに作用して、まとまりがなく、間延びした演奏になってしまいがちだった印象があった。

「君のパート」

 香苗のパートには、彼女一人しかいない。会場の隅に彼の姿があったのは確認していた。ほとんど観客のいない中での演奏だったので、観客の一人一人が識別できた。しかし、そんなにじっくり聴かれていたとは思っていなかった。

「今までに、マンドリン部の演奏を聴いたこと、あったっけ?」

 さすがに「私の」とは言いにくく、あいまいな言い方をする。

「ああ、入学式とか、去年の文化祭も、ちらっと見たな」

「え? 来てたの?」

「ああ、なんとなく見に行ってた。まあ、ずっといたわけじゃなかったけど」

 去年の香苗は演奏するのに精いっぱいで、客席を見ている余裕はなかった。それでも視界に入れば気づいただろうから、おそらくは、ほんのわずかな時間しかいなかったのだろう。

「だんだん、セロの音の良さが引き出せるようになってきたんじゃないかな。メロディがスムーズに流れるようになりつつあった」

「ああ、そう」

 ありきたりな感想ではあるものの、目頭が熱くなってくる。なにも耳に入らないふりをしていながらも、この人はやはり音楽が好きなのだと思った。

 驚きや、恥ずかしさも同時に湧き上がってきて、笑ってごまかしたくもなってくる。お礼を言う余裕もなく、無表情を装う。怒っているように見えないか、少し心配しながらも。

「君のパートって、君が思っている以上に重要なんだよ。音楽ではどうしても高い音が目立つけど、それを支える低音がちゃんとしていないと、聴いてる人はやっぱり、物足りなく思うんだ。それを常に意識しといたほうがいい」

「マンドリンが高域の音を弾いているとき、マンドリンが鳴いているように聞こえることがあるの。でも、マンドリンだけの音を聴いていても、そこまで深みのある鳴き方にはならない気がする。ギターの伴奏とか、低い音があってこそ、高い音が引き立つって、そういう感じは知ってたんだけど、今言われて、初めて気づいた」

 佐久間は軽く頷いた。

「わかってるんなら、君だけがわかるんじゃなくて、聴いてる人にもわかるように、ね」

 もっとこういう話をしたい、と思っていたが、佐久間はあっという間に上着を羽織ると、カバンを持ち上げた。

「まあ、可愛がってやってくれよ。好きな楽器なんだ」

「ピアノよりも?」

「順位をつけることに、なんか意味あんの?」

 そう言って軽く笑うと、彼は部室を後にした。



 香苗と畑野とは同じ中学校出身だったので、二人で話すことといったら中学時代の思い出話が多かった。かつてのクラスメイトの現況だとか、先生がどこに転勤になっただとか、そんな話題が大半だった。しかし最近では、なぜか佐久間の話が出ることが多い。

「あいつ、バイトばっかりしてるように見せかけて、けっこうちゃんと模試受けたりしてるんだぜ」

「え? 本当に?」

「有名な国立に行きたいらしい」

「有名な国立……」

 そんな話に、ふと違和感を覚える。そういう選び方は、どうも彼らしくない気がする。

「有名なの、好きなんだ。なんか意外だね」

「有名な大学の方が家庭教師のバイトが探しやすいからなんだってさ」

「はあ」

「今、高校生だと自給七百五十円くらいなのが、家庭教師だと、うまくすれば自給二千円くらいになるらしい」

「それはすごいね。でも、佐久間君なんでそんなにバイトする必要があるの? 裕福なんでしょう? 妹さんもチェロ習ってたらしいじゃん」

「お前、詳しいな」

 畑野が知らなかったとは以外だった。香苗は「え、知らないの」という言葉を飲み込んで、「たまたま訊いただけだよ」と言った。

「まあ、確かにあいつっぽくないよな。予備校の冬期講習も受けるらしい」

「それも自分でバイトして払うの?」

「それは親に払ってもらうんだってさ」

 畑野と話すときは、自分とはまた違う会話をしていることを改めて知る。いずれにせよ、なんだかよくわからない人だと思う。

「以前から気になってたんだけど、お前、あいつに『音楽を捨てた』だとかなんとか言ってただろう。あれ、なんのことなんだ?」

「いや、大した意味はないの。……なんでそんなこと気にするの?」

「あいつ、夏休み最期の日にキーボード弾いてただろう。実は俺、あのときびっくりしたんだよな。俺が、どうしてもお金がないって言ったら、『しょうがないな、キーボード弾けば一応音楽に関わってるってことになるよな? そしたら追い出されはしないだろう』とか言い始めてさ。猫ふんじゃったでも弾くんだろうかと思ってたら、あれだろ」

 あれは自分のためにしてくれていたのだろうかと半ば思っていたのが、種明かしされてしまったような気がした。

 もう少し騙されたままでいたかったなと思う。結果的に、あれで一年生との気まずい空気が解消できたので、文句を言う筋合いはないのだったが。

「ピアノが弾けるだなんて、それまで一言も言ってなかったしな。でも、考えてみたら、あいつ、今年知り合ったばっかのときにも、マンドリン部に興味がありそうだったんだよな」

「そうなの?」

「俺がマンドリン部だって知ったら、なんか去年の文化祭見てたらしくて、俺がマンドリン弾いてて、お前がセロを弾いてたのが気になってたらしくてさ。普通、特に本人が希望しなければ、大きい楽器って男子がやることのほうが多いだろう。だからあいつは、俺もお前もそれぞれ希望してパートを決めたんだと思ってたらしいんだ。入部順で決まったと言ったら、なんだか納得してるみたいだった」

「それで?」

「楽器変わってあげたら? って言われた」

「そんなに弾きにくそに見えたのかなあ」

 香苗は涙が出そうになるのを必死でこらえた。楽器にしても、奏者を変えて欲しかったかもしれないと思う。

「でも、それも特に音楽の話という感じでもないよね」

「まあな。それくらいあいつは音楽の話をしないんだ。全然関心がないんだって思ってたけど、もしかしたら逆に、なにか嫌なことがあって、それであえて触れないようにしているのかも、なんかそんな疑いを抱かせるよな」

 そんなことは、香苗もずっと前から気づいていたはずだった。しかしこうして他人の口から聞くと、さらに確信が強まるのだった。

 今までのことを思い出すと、自分が無理やり音楽の話をしようとしたのは、傷口に塩をすり込むようなことだったのかと思えてくる。「音楽を捨てた」などと言われて、涼しい顔をしながら、内心どう思っていたのだろう。

 しかし、マンドリン部にせっせと通ってくるところを見ると、やっぱりまだ音楽に未練があるのかもしれない。バイト前の中途半端な時間をつぶせる場所として都合がいいのは確かだとしても、ここにいるだけで、嫌でも楽器や五線紙を目にすることになる。おつきあいで文化祭の演奏まで聴きに来させられていまう。

 彼は一体、どういうつもりでここに来ているのか。謎は深まるばかりだった。

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