第10話

 そんなことを何日か続けていたが、夏休みが明ければ文化祭まで一週間とない。逃げてばかりいるわけにはいかなくなりつつあった。

 まずは知ることからだと思い、模範演奏を聴いてみることにする。マンドロンチェロのCDはさすがに見つけられそうにないので、図書館へ行ってチェロのCDを借りてみた。

 何枚か聴いた結果、一番気に入ったのは、ピアノと共演しているイージーリスニング風のものだった。がちがちのクラシックは香苗には敷居が高いようだったが、そのCDでは、クラシック音楽の中でも、白鳥や、愛の挨拶など、親しみやすい曲が入っていたので、すんなりと楽しめた。

 聴き始めたころは、バイオリンの方がきれいな音だと思っていた。しかし、何度も聴いているうちに、チェロを聴き慣れた後でバイオリンんを聴くと、どことなく物足りなくなるような気がしてきた。

 もしかすると、自分はこの低い音が好きになりつつあるのかもしれないと思った。高い声で歌うのとはまた違う、じんわりと語りかけてくるような音。すぐに気がつくわけではないが、毎日一緒にいて、いなくなって初めてその不在に気がついていてもたってもいられなくなるような、そんな音色に思えてくる。先日佐久間が弾いていた、無伴奏チェロ組曲のプレリュードをバイオリンやフルートで吹いてみても、ここまで人気がある曲にはなっていなかっただろう。

 やがて、夏休みも最後の、八月三十一日となった。明日からは、学校は通常営業に戻る。ここに来るのは自分の意志というよりも義務になってしまうのだと思うと、少し寂しい気もした。来たい人だけが来て、わいわい好き勝手できる日々もこれで終わりだなどと、ぼんやり思っていた。

 練習が終わり、少し遅れて部室に戻ると、中からキーボードの音が聴こえてきた。もしやと思ってドアを開ける。

 弾いていたのは、予想どおりの人だった。ただ、予想と違って、彼は一人で弾いていたのではなく、周りをぐるりと部員達に囲まれていた。座るスペースはないものの、みんなは立ったままぎゅうぎゅうになりながら、彼の演奏をより近くで聴こうとしていた。

 それは、以前聴いたのとは違う、バロック風の曲だった。佐久間は、香苗がドアを開けても中断する素振りは見せず、曲が終わるまで顔を上げなかった。

 曲が終わると、みんな拍手をしながらも、それとなく香苗の様子を伺っている。

 なにか言わなければ、と思っていると、

「一応音楽に関わってるんだから、いても文句ないだろう?」

 畑野が言った。

「ああ、そうだね」

 香苗が言うと、みんなはほっとしたようにざわざわし始めた。

「佐久間先輩、ピアノ上手いんですね。かっこいい!」

「すごい上手です。キーボードじゃなくて、ちゃんとピアノで弾いてるのを聴いてみたいです!」

「ジャスも弾けます?」

 ここぞとばかりに、みんな口々に話しかけていた。

 あれほど音楽に興味はないと言い張っていた佐久間が楽器に向かっているとは、一体なにがあったのか。当てつけなのか、もしくは自分の言動が、ここまで彼のことを追い詰めてしまったということなのか。うれしいというよりも、なんだか悪かったという気さえしてくる。そんな彼女の気持ちにも気づかずに、畑野は、

「お前もなんかリクエストしたら?」

 などと言う。香苗はどうしようかと思ったが、佐久間が特に反対する素振りも見せないので、何食わぬ顔して「じゃあ、フォーレの曲がいい」と言った。

「フォーレの、なに?」

「お任せする」

 佐久間はちょっと考えると、シシリエンヌを弾き始めた。数日前、セロで爪弾いていた曲だった。

 キーボードだから、鍵盤の数がピアノよりも少ないし、ペダルもついていない。そういう楽器で演奏しているのにも関わらず、引き込まれてしまうのはなぜなのか。この演奏をピアノで聴けたら、と香苗も思う。

 キーボードの軽い音にも関わらず、気持ちよく流れていく調べは、あのときを思い出させた。同じ作曲者の曲だから、共通する部分があるのだろうか。ベルリオーズを弾いてはくれなかったことに、ちょっとがっかりしているのも事実だが。

 あのとき、放課後の音楽室で、今目の前にいるこの人があの曲を弾いていた。それは、友人から借りたオムニバスのCDを、さほど真剣ではない思いで聴いていたら、突然大ヒットする曲に巡り合ってしまったかのようなものだったのかもしれない。

 もしかすると、曲を弾いていた人はさほど重要ではなかったのではないかと思ってみようとする。 

 たまたま、同年代の男の子が目の前でピアノを弾いていた。その辺のピアノストの演奏をCDで聴くよりも、生演奏のほうが迫力があるわけだし、同年代の子がミスもなく正確な演奏をしているのを見て、びっくりしただけだったかもしれない。あのときの様子は、日に日に記憶が薄れていき、淡い輪郭がぼんやりと思い出せる程度になってしまっている。

 あるいは、自分は単にロマンを求めていただけなのかもしれない。退屈ではないものの、期待していたほど面白味のない高校生活に、なにかきらきらするものを見出したかったのかもしれない。そこに彼が当てはまりそうだったので、ピースの形が若干違うことが気になりつつも、勝手に当てはまることにしてしまっていた、そんなことはないだろうか? 

 ベルリオーズが演奏されず、返ってよかったのかもしれない。みんなとあの曲を共有することになってしまうと、あの時の大事な瞬間が薄まってしまうような気がした。一方的に見ていただけで、共有している思い出ではないのだけど、それでも、それなりに丁寧に扱いたい類のことだった。

 演奏が終わり、香苗のどこかもの言いたげな表情を見てとったのか、佐久間は、

「ちゃんとしたピアノじゃないから、これが限度なんだよ」 

 と言った。

「いや、いちゃもんつけようと思ったんじゃないんだけど……」

「佐倉は、お前があまりに上手だから嫉妬してるんだよ」

 と畑野。

「別に、そこまで子供じゃないと思うんだけど……」

「今度、音楽室のピアノで弾いてください」 

 先日、香苗の悪口を言っていた一年生が、可愛らしい声でそんなことを言っている。

「ごめん、以前突き指してから、重い鍵盤は弾けないんだ」

 佐久間は、いかにもすまなさそうな顔をしてはぐらかした。

 なぜそんなうそをつくのかわからない。みんなはあっさり騙されたのか、言った本人もさほど本気ではなかったのか、それ以上誰もなにも言わなかった。

 そうして、一年生が帰っていくと、畑野と佐久間はまた勉強を始めた。

「今日は、なんでまたここに?」

「ああ、八月分の小遣いが底を尽きて。だから、今日はここで勉強するしかないんだ」

 今日の練習は午前中で終わりだった。みんな始業式の翌日に行われる県下一斉テストが気になるので、最後の日は午前中で終わらせるという不文律があるのだ。

「佐久間君、本当にお金使うの嫌なんだね」

「まあね」

「だから、ほら見ろよ、俺は家でわざわざこいつの弁当も作ってきてやったんだ」

 香苗は、「現実逃避してるのでは」という言葉を飲み込む。

「畑野君、自分でお弁当なんて作るんだね。しかも友達の分も作るだなんて、すごい自信家」

「弁当くらい作れなくてどうするんだ。お前と一緒にするなよ」

「それくらい作れますー」

「佐倉さんは、勉強してかなくていいわけ?」

 佐久間は、涼しげな顔でそんなことを言う。

「私、お弁当持ってきてないし……」 

「さすがにお前の分の弁当はないよ、すまんな」

「コンビニで買ってくれば?」

「私も、明日がお小遣い日だから、お昼買うお金がない」

「まったく。どうしてみんなそんなに計画性がないんだ。いくらいるの?」

 佐久間は鞄を引き寄せる。財布を取り出そうとしているらしい。

「いや、そんなつもりで言ったんじゃ……。お金大切にしてるんでしょう?」

「まさかもらうつもりでいるのかよ? 貸すだけだろう? なあ?」

 畑野が大げさに言うので、佐久間はちょっと笑った。

「もちろん、借りるつもりに決まってるでしょう!」

 香苗は慌てて返事をしたが、思いがけぬ展開に驚いていた。

「じゃあ、五百円借りていい?」

「はい、どうぞ」

 佐久間は、五百円玉を差し出した。

 実のところ、彼女の財布の中にはまだ三百三十円が残っていた。五百円はこっそり生徒手帳に挟んで、昼ごはんは手持ちの三百三十円で済ませようと、頭の中で算段する。

(私のこと、もう怒ってないのかな)

 外に出ると、直射日光がまぶしく、今までいた室内でのことが、現実のことではなかったような気さえしてきた。しかし、手の中にある五百円玉は、太陽に当たると木の葉になってしまうわけでもなく、確かに国内で流通している硬貨だった。


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