第9話
数日後、正式に夏休み中の練習が始まった。練習が終わると、部室には、香苗のほかに畑野と一年生数名が残っていた。香苗は自主練をしていて、畑野は宿題をしている。それぞれ、そんなふうにしたいことをしながら過ごす、そんなひとときだった。
そこへ、ひょっこり佐久間がやってきた。淡い青の半袖のシャツとジーンズという服装だ。
私服を見るのは初めてだからか、みんな一瞬止まってしまった。
「今日はバイトじゃなかったのか?」
と畑野。
「バイトは休みだったんだけど、あるのと勘違いして、来てしまったんだ。畑野、宿題進んでる?」
香苗は立ち上がると、「邪魔になるようだから、練習教室に行ってくるね」と言った。
宿題をするのに、自分一人が弾いているくらい大して気にならないのはわかっていた。そもそも、彼らが宿題をするかどうかも定かではないというのに、厭味ったらしかったということは感じていた。
二十分ほど練習して、気分も落ち着いてきたので部室に戻ると、
「頑張るね」
と佐久間が言った。途端に、今まで必死で保っていたバランスが、音を立てて崩れた。
「なんか文句あんの?」
宿題をしていた畑野も顔を上げる。
「私がどんなに練習したって、佐久間君は一月か、もしくは一週間も練習すれば、こんな楽器やすやすと弾いちゃうんでしょう。だからって、音楽を捨てた人にそんな態度取られても……」
佐久間は、香苗をじっと見た。
「捨てるもなにも、初めから僕にはなにもないけど」
「じゃあ、なんでこんなとこに来てるの? ここは自習するための場所じゃなくて、音楽の活動のための場所なんですけど」
自分でも、おかしなことを言っているのはわかっていたが、止まらなかった。
香苗は楽器をしまうと部室を飛び出した。みんなの呆気にとられている顔が見えるようだったが、どうしようもなかった。
次の日から、佐久間はめっきり姿を現さなくなった。
「もしかして、私がなんか言ったの気にしてるのかな?」
「気にしない奴がいると思うか?」
畑野の発言に、返す言葉もない。
「お前らって、仲よかったんだな」
「なんで?」
「だってお前、ちょっと会っただけのやつだったら、あんなにがんがん言わないだろう?」
「……数学の勉強を教えてもらっていた以外は、特に関わりはないんですけど……」
知り合うまでに一方的に見ていたのを除けば、と心の中でつぶやく。
「じゃあ、恩しかないのに、あんなにわめき散らしていたのか。お前ってやつは……」
畑野は腕を組んで、首を大きく左右に振った。
「あれ以来、勉強会場がマックになって、あいつの分の飲食代まで俺が払うはめになったんだよ。どうしてくれるんだ」
「まあ、それが正しいあり方なんじゃないの」
「もう、こうなったら責任とって、ここでお前、毎日六時まで自主練してろよ」
「やだよ、六時までいるんなら、五時まで練習して、五時からは勉強したい」
「ここは自習するための場所じゃないって言ったのは、どこのどいつだよ」
めんどうなことになってしまったと思いながらも、今更「やっぱり部室に来たら」などとも言えなくなってしまった。
佐久間のように知らない人がいて、一年生が気を使って部室にいにくいのではないかという心配もあった。だとしたら、自分が一学期の間、部室で勉強していたのも申し訳なかったと思う。でも、これで本来あるべき姿に戻ったのかもしれない。
数日たったある日のことだった。忘れ物を取りに部室に入ろうとすると、室内から一年生の声が聞こえてきた。
「佐久間先輩来なくなっちゃって、つまんないね」
「自分は勉強教えさせといて、ひどいよね」
香苗は帰宅したものだと思ったようで、一年生数人がひそひそ話していたのだった。
立ち去りたい気持ちと、もう少し立ち聞きしたい気持ちとが交差する。
「悪口言うんだったら、本人が来そうもないところで言えばいいのにな」
一瞬幻聴かと思ったが、確かに生身の人の声だった。明らかに、背後に人の気配を感じる。振り返ると、佐久間がいた。
「ぎゃあ!」
「もうちょっと普通に驚いてくれない? 心臓に悪いんだけど」
彼は暑さにそぐわない涼しい顔をしていた。香苗の声を聞いたせいか、一年生の声がやんだ。
「あれ、今日畑野君は……」
「僕の漫画を取りにきただけだから」
「わざわざ夏休みに?」
「近くまで来たから」
一年生達は、思わぬ彼の出現にぱっと顔を輝かせたが、香苗と目が合うと、途端に気まずそうな表情を見せた。
佐久間は地味ではあるものの、姿勢がよく堂々としていて、よく見るとそれなりに整った顔立ちをしていて、一部の女子から人気があると聞いたことがあった。一年生も、彼が来るのを密かに楽しみにしていのかもしれない。言ってくれればよかったのに、と思う。佐久間は漫画を鞄に入れると。「じゃあ」と言って去って行った。
一年生に陰口を叩かれていたのは、思ったよりも堪えた。お互いそ知らぬふりをするものの、何事もなかったかのようにふるまわれるのも、それはそれで腹立たしい。
香苗は、何も聞かなかったふりをするにはまだ修業が足りないようで、それから一年生とはあまり口をきかなくなった。あいさつくらいはするものの、彼女のほうから話しかけることはなくなった。
練習についても、すっかりやる気が失せてしまった。楽器を抱えると、どこからともなく「この楽器あんまり好きじゃないでしょう」という声が聞こえてくるようだった。定められた練習時間内で、合奏の時間だけはどうにか持ちこたえたが、それ以外の時間は全然違うことを考えながら、手に基礎練習をさせるに任せた。
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