第8話

 その日もまだ部活はなく、部室は一人占めできる予定だった。家からお気に入りのテープを持ってきて、少し楽器の練習をして、それがすんだら、テープを聞きながら軽く勉強もするつもりで、重い教科書や参考書も鞄に入れていた。

 部室の戸を開けると、当然のような顔をして、佐久間がお茶を飲んでいた。

「なんでここにいるの?」 

「君こそ。まだ練習は始まっていないと聞いたんだけど。もしかして自主練でもするの? 意外と真面目なんだね」

「意外とは余計だよ。佐久間君はなんでまた? まさか……、マンドリン部に入部するの?」

「まさか。僕はただ、あいつに呼ばれたんだ」

 「まさか」があまりにきっぱりしすぎていて、香苗はわからないように少し顔をしかめた。

「喫茶店だといるだけでお金がかかるし、図書館は静かにしないといけないし、僕たちのクラスでは既に自習してる人がいて、しゃべりながら勉強しにくくてね。佐倉さんも一緒にやるか?」

「どうせついていけないの、わかってるでしょう」

 あらかじめ誘ってくれなかったことが腹立たしくて、思わず断ってしまった。

「相変わらず呑気だね。テストまで、あと三週間ないのに」

 この学校では、休み明けの九月二日に、夏休みの宿題をもとにテストが行われるのが通例だ。

「あれはいいよ、成績に関係ないし」

「でも、帰ってきたテストがお団子だったら、やる気なくすだろう?」

「お団子なんていらない!」と怒る香苗を無視して、佐久間は、

「よかったら、ちょっと君の楽器貸してもらっていい?」

 と言う。

 驚いてケースからセロを取り出し、無言で差し出す。マンドリンの可愛らしさの面影もない、形も大きさも琵琶に似た楽器だった。

「ふうん、なるほどね」

 音楽に触れないようにしていると思ったのは、やはり気のせいだったのか、それとも、とうとう耐え切れなくなったのか。

「弾いたことあるの?」

「いいや」

 指でぽんぽん弾くので、ピックを渡す。

 佐久間はトレモロの真似をしたがうまくいかず、単音で曲らしきものを弾き始める。

「なんで?」

 香苗はぽかんとしてしまった。初めて触るというのに(調弦したことはあったにせよ)、ちゃんと曲になっている。フォーレのシシリエンヌという、香苗も知っている曲だった。

「コントラバスと同じ弦の並びなの?」

「その質問、ストーカーっぽいんだけど」

 そんなことを言いながら、次の瞬間には、突然十六文音符ばかりの曲を弾き始める。途中で少しつっかかりながらも、あっという間に最後まで弾き切ってしまう。

「それはなんていう曲なの?」

「無伴奏チェロ組曲の、第一番、プレリュード。チェロでは有名な曲だよ」

「佐久間君、チェロ弾いたことあるの?」

「ちょっとね」

「なんでもできるんだね」

「なんでもできないよ。妹が習ってたから、ちょっと借りたことがあっただけだ」

「そう。そういう本格的な楽器の音を毎日聴いてるんなら、こんなのお遊びみたいなもんなんだろうね」

「なんですぐそういう言い方をするのかな。これだって本格的な楽器じゃないか。お遊びでやってるのは君のほうだろう」

 あまりの真っ当さに、返す言葉を失ってしまう。

「それに僕だって、チェロはお遊びでやってただけだよ。今はもうやってないし」

「じゃあ、ピアノは?」

「そんなの、もちろんお遊びだったに決まってるじゃないか」

 佐久間はやけに真剣な目で香苗を見ている。香苗に言うというよりも、むしろ自分に言い聞かせてでもいるかのようだ。

「今日はまた、なんで突然私のセロを弾き始めたの?」

「どんな音が出るのかなと思ってね」

「私が弾いてる音じゃ物足りないってこと?」

「べつに、そんなこと言ってないけど」

 佐久間はいったん言葉を区切った。香苗が言うように促すと、じゃあ仕方ないとでも言いたげな様子を見せた。

「君、この楽器あんまり好きじゃないでしょう」

 香苗は体が凍りついたような気がした。

 日頃の練習を見ていただけでわかってしまうほど、自分はつまらなさそうに弾いていたのか。そこまで自覚していたわけではなかったが、確かに日々そんな違和感は覚えていた。自分は本当に楽しんでこの楽器を弾いているのか。たまたまそのパートになったという理由でも、もっと楽しくやろうという気持ちになれる人もいる中で、まあいいや、一応間違えないで弾けてるし、程度の思いでしか楽器と関わっていなかったように思われた。

 なんでわかったの? と尋ねる気も起きなかった。無言で楽器を受け取ると、楽器をケースに戻し、部室を後にした。

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