第5話

 あまり集中できないまま練習が終わり、部室に戻る。まだ彼はいるのだろうかと思う。畑野はまだ練習部屋にいたから、事情が変わっていない限り、いるはずだった。

 戸を開けると、 彼はそこにいた。楽器を片付けている部員たちに紛れて漫画を読んでいた。

 一人、また一人と部員が去っていくと。やがて二人は宿題を始めた。

「何の宿題なの?」  

「数学」

「確か、畑野君のクラスも、数学は斉藤先生だったよね?」

「ああ」

「私のクラスと一緒だ。私もついでに教えてもらってもいい?」

「佐倉が数学の勉強するなんて、珍しいな」

「一人だとしないから、教えてもらうの」

 二人はなにも言わずに、クスッと笑った。

 気軽に参加してみたものの、思いの他真面目に勉強しているようだった。授業で出された問題をもとに、熱く意見を交わしている。香苗が割り込む隙など、まるでない。

「佐倉さん、さっきから黙ったままだけど」

 佐久間に突然名前を呼ばれ、ぎくっとする。まだ自己紹介もしていなかったが、畑野が彼女の名前を呼ぶのを聞いて、覚えたようだった。

「うん……そうだね」

「なにかわからないことあったら聞いといたほうがいいぞ」

 畑野の言葉に甘えて、彼女は、正直にわからない箇所言った。

「それで、よく今まで授業受けてたなあ」

 畑野は呆れたようにつぶやいた。

 佐久間は、真面目な表情を見せる。

「悪いけど、こっちは明日が期限なんだよ。佐倉さんのクラスは?」

「金曜日」

「じゃあ、明日か明後日にじっくりやろうか。それでもいい?」

 自分のために特別に時間をとってくれるということなのか。「やったー」と言いたいのをどうにか抑えて、浮かれたことを顔を出さないよう、ちょっと戸惑うふりをする。

「そんなに時間かかるかな?」

「今言ったことがわからないってことは、それ以外も全然わかってないってことだろう?」

「まあ、そうだけど……でも、佐久間君は大丈夫? バイトは?」

「明日、明後日は七時からだから、僕はまあ大丈夫といえば大丈夫だけど……」

「まさか部活サボって宿題しようってんじゃないだろうな?」

 畑野はにやにやしながら、ついさっきの香苗のセリフを繰り返す。

「だって……」

「まあ、なんとかなる、なんとかする」

「答えは教えてくれないんだもんね……」

「当然だろう」

 佐久間は呆れたように言った。

「忙しいのに、そこまで時間を割いてもらっていいの?」

「呑気なこと言ってると、留年するよ」

 香苗は思わず頬を膨らませた。けっこうずけずけと物を言うのだなと思った。

 彼女は文系のクラスにいたので、本来であれば数学にそれほど時間や労力を割く気はなかったが、他に何ひとつ接点のない佐久間ととりあえず関わりを持つには、いい手段に思えた。

 自分ばかりが教えてもらうのは不自然かと思い、美紀や弥生にも声をかけてみたものの、二人とも「私はいいよ、佐倉ちゃん頑張って」と笑ってはぐらかすのだった。

「佐倉さん、一年生の時も、数学の授業受けてたんだよね?」

 佐久間は、ことあるごとに不審そうな表情を見せる。

「まあ、必修だからね。出席はしてたよ」

「テストも、受けた?」

「一応ね」

「進級するとき、先生に何か言われなかった?」

「再試があったんだけど、先生がくれたプリントから全部出るテストで、計算式も答えも丸暗記したから、まあなんとか」

「そうか。だからこんなになにも理解してないんだ」

 佐久間はため息をつきながらも、いつも、香苗の方が恐縮してしまうくらい辛抱強く教えた。香苗が理解することに対して、本人よりも、むしろ佐久間君の方が興味を持っているかのようだった。

 教室では平均的な生徒のレベルに合わせて授業が行われるので、授業に全然ついていけていなかった香苗も、一対一で、どこがわからないのか綿密にひも解いてもらっているうちに、少しずつわかるようになってきた。

「私、国語とか英語の成績はいいんだよ。四とか五とか一応もらってるし」

「ふうん。そして、数学は二?」

「一応三でしたけど」

「そんな、自信満々に言われても」

 つい最近知り合ったばかりだと感じさせないほど、いつの間にか佐久間は普通の態度で香苗に接するようになっている。人懐っこいわけでもないけど、あまり人見知りをしない性質なのかもしれない。最近では、まるで一年生の時から知り合いだったかのような気にさえなる。

「佐久間君は、数学以外では何が得意なの? 音楽?」

「またその話? 今は音楽は履修してないし」

「じゃあ中学生の時は?」

「一応、高校の内申点に響かない程度の成績ではあったけど」

 彼はあれ以来、一度もキーボードを弾こうとしない。それどころか、あれは事故のようなものだから、人にはあまり言わないようにとさえ言う。

「事故って、どういうこと?」

「あの日に限って、読みかけの本を教室に忘れてきちゃったんだ。教室へ行ったら先生と誰かが面談してて、入れる雰囲気じゃなかった。そんな手持無沙汰な状況で、目の前にキーボードがあったから、つい手が伸びてしまったんだ」

(『つい手が伸びてしまった』ってなによ。万引きじゃあるまいし)

 涼しい顔を一ミリも崩そうとしない佐久間に、腹立たしさを覚える。

「じゃあ、佐久間君をここに閉じ込めたら、そのうちキーボード弾きだすの?」

「佐倉さんに閉じ込められるほど、間抜けではないつもりだ」

 通常部室には、残って練習している人や、漫画を読んでいる人など、何人かは残っているものだったが、今日に限って、他に誰の姿もない。こんな機会はめったにないと思うと、踏み込みすぎだと思いながらも、香苗は普段聞けないことを聞いてしまう。

「佐久間君は中学校の時、合唱コンクールとか、入学式とかそういうときによくピアノ弾いていたんでしょう?」

「なんでそんなこと知ってんの?」

「風のうわさで」

 栗原という、一年生の時に一緒に図書委員をしていた女子から聞いたのだった。彼女が彼と同じ中学校出身だということを知って、「あの佐久間君っていう人、ピアノやってるの?」と試しに訊いてみたら、栗原はなんと佐久間と同じ部活にいたのだった。

 佐久間は中学校では吹奏楽部に所属していて、コントラバスを演奏していたらしい。ピアノも長いこと習っていて、中学三年生のピアノの発表会ではショパンの幻想即興曲という、かなり難易度の高い曲を軽々と弾きこなしていた。栗原の友達が彼と同じピアノ教室だった関係で、観に行った栗原も偶然演奏を聴いて、日ごろの様子を見れば当然ではあったけれど、やはり感動したらしい。近くに座っていた人達も、「え? あの子中学生なの?」「ああいう子は将来音大行くわよ」などとささやいていた。

 十月に開催された文化祭で吹奏楽部を引退したあとは、しばらく会っていなかった。部活をやっていた頃は、佐久間は音楽科のある高校を受験するものだとばかり思っていた。まわりのうわさだけでなく、本人もそんなことを言っていたのを聞いた覚えもあった。

それが、高校入試のときに試験会場に入ったら、そこにはまた佐久間もいた。

「あの時は驚いたよね。クラスが違ったから全然情報なくて。一瞬、私が間違えたのかと思っちゃったくらいだった。動揺して落ちたらどうしてくれるんだって思いながら、試験受けたんだよね」

 彼女はそう言うと、ちょっと寂しそうに笑った。

「なんで今はピアノ弾かないの?」

「飽きたから」

 あまりにありきたりな返答に、裏になにかある気がしてしまう。探ってみたいと思いつつ、警戒されてもいけないので、とりあえず問題を解くことに集中する。

「あの、できました……」

「うん、まあいいんじゃない。こんな感じで、他のも解いておいて。そろそろバイト行くから」

 普段部室を出る時間よりも早いなと思いながら、なにも言わずに見送った。

 初めて話した時には、キーボードの演奏を聴いただけではなくて「Aの音が違う」と音に関する話までしたのというのに。佐久間はあれ以来、まるで音楽の話をしようとはしない。他の部員に調弦のことで指摘しているのを見たこともない。あのときのチューニングがよほどひどかったのだろうか。そんなことを思いながら、香苗も部室を後にした。


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