第4話
みんなが揃うと、誰からともなく「やりますか」という雰囲気になる。まずは、みんなで基礎練習に取りかかる。
メトロノームを中心に、なんとなく輪になる。トレモロとクロマティック、そして音階の練習は毎日することになっている。トレモロというのは、ピックを持った手を上下に細かく振ることにより、一つの弦を何度も弾いて、カラカラカラ……という音を出す奏法である。マンドリン演奏において、基本中の基本だ。続いて、ピアノに例えると、黒鍵の音も交えて、半音ずつ音を上げて弾く練習がクロマティックだ。
その次は音階の練習になる。ドレミファソラシド……ドシラソファミレドをひたすら繰り返し弾いていく、これらをテンポを徐々に上げながら練習する。そんなことを毎日のように繰り返していくと、知らないうちにそれなりに指が動くようになっていく。
一年間同じことを日々続けていると、指はほぼ勝手に動いているので、頭では違うことを考えられるようになっている。涼しい顔をしながら、香苗は、ついさっき突然起きた出来事について思い返していた。
実は、彼のことはまるっきり知らないわけではなかった。一度も話したことはなかったけれど、顔と名前は知っていた。
香苗が彼を初めて見かけたのは、一年ほど前の初夏の頃だった。その日は掃除当番だったので、帰宅前に十五分ほど義務的に廊下を掃いていた。さあ帰ろうと思ってふと鞄を開けると、愛用品の扇子がないことに気がついた。六時間目の音楽のときにはそれで煽いでいた覚えがあったので、音楽室へと向かった。
中間テスト前だったので、部活は休みで、普段吹奏楽部が占拠している音楽室は、ひっそりと静まり返っているはずだった。
音楽室に近づくと、ピアノの音が聴こえてきた。今頃誰だろう。先生にしては上手すぎるのではないかと思いながら、ドアの窓から中をのぞくと、男子生徒が一人、ピアノを弾いていた。彼が、どういういきさつで音楽室を独り占めしているのかはわからなかったが、それなりによいグランドピアノだったので、羨ましいと思いながら見ていた。
彼女もピアノを習っていたことがあり、彼が演奏していた曲は大体知っていた。夢想やジムノペティのような、比較的穏やかな曲を弾いたかと思うと、突然月光の第三楽章を弾き始めたりする。なんだかすごいなと思って見ていると、途中でつっかかって止まってしまう。本来は上手なのだけど、近頃練習をしていなくて、弾けるつもりでピアノに向かってみたけど指がついてこない、そんな様子だ。いつ終わるかわからないし、さっさと立ち去ろうと思いながらも、なかなか動くことができないまま、彼女はだだじっと見ていた。
十五分くらい弾いていただろうか。彼は壁に掛かっている時計をちらっと見た。時計は四時を指そうとしていた。一瞬立ち上がろうとしたようにも見えたけど、また座り直すと、膝の上に手を置き、前を向く。遠くを見ているようにも見える。そうしてゆっくりと、最後の曲を弾き始めた。
それは、フォーレのドリー組曲の一番目の曲で、ベルリオーズという曲だった。もっとも、そのときの香苗は正確な曲名がわからず、後で調べて知ったことだったか。
CDで聴いたことがあった気がしたけど、名前を憶えていないくらいだから、それほど印象に残らなかったのだろう。聴いたときの自分に鑑賞能力がなかったのか、あるいは彼が通常よりも上手いのか。なんでこんなにいい曲を、自分は聞き過ごすことができていたのだろうかと思った。
どこか懐かしくて、心地よい夢をみているようで、メロディの美しさが、直に心の中に入ってきていた。
この人はよほどセンスがいいのだろう。アクセントのつけ方やリズムの揺らし方に無理がなく、大きな川がゆったりと流れるのを、ちょっと離れた位置から見ているときのような、上手なお母さんが絶妙な加減でゆりかごを揺らしているかのような、そんな様子でゆるゆると曲が流れていく。
ずっと終わらないでいてほしいと願っていたけれど、やがて演奏は終わった。彼はさっと立ち上がると、こちらに向かって歩いてきたので、香苗は慌てて逃げ出した。教室に逃げ帰ってきて、よくよく見てみる、扇子は机の中の参考書の間に挟まっていた。
帰宅してから、父のCDケースを探し回って、その曲が入ったCDを見つけ出した。夕飯を食べて、お風呂から上がると、部屋に閉じこもって何度もその曲を再生した。さっき聴いた演奏の輝きはもう思い出せず、その輪郭を追っているような虚しさと、たとえ影だとしても、触れているだけましという充実感とが交差していた。ひとまず満足するまで聴き続けると、もう一度彼の演奏を聴くまでは、このCDはお預けにしておくことにした。
翌日、友達を訪ねながら各クラスを回って、昨日の人がどのクラスにいるのか探した。その結果、彼は、香苗がいるD組から遠く離れたG組の人だということがわかった。集会などで集まっても、隣り合うことはない距離だ。彼は特に部活動にも入っていないようだった。たまに図書室でみかけることはあっても、話をするどころか視線が交差することもないまま、ときおり隣を通り過ぎるだけの日々が続いた。
二年生のクラス替えでも同じクラスになることはなく、今後もなんら関わりなく日々が過ぎていくのだろうと思っていた。それが、さっき部室の扉を開けたら、当然のような顔をしてキーボードを弾いていたのだった。
「いつまで弾いてんだよ」
畑野の声に、香苗は我に返った。基礎練はもう終わったようだった。みんなが弾きやんだあとも、彼女は一人で音階を弾き続けていたようだ。手が止まると同時に、みんなが笑い出した。
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