第3話
二年生になり、五月の連休前に三年生が引退すると、香苗たちが部の中心になった。簡単に言うと、部室を使いやすくなったのだった。
その年はどういうわけか、一年生が七人も入って、部員が全部で十一人になり、全員が入りきるにはちょっと窮屈だった。そいうとき、部室はしばしば最高学年のたまり場となる。最高学年、彼女たちの学年は、新しく部長になった美紀、副部長の畑野、茶道部と掛け持ちしている弥生、そして香苗の四人だ。弥生は茶道部にいることが多かったので、残りの三人で残ることが多かった。真面目に自主練をするのではなくて、ちょっと他のパートの楽器を弾いてみたり、漫画を読んだり、電車待ちの時間を調整したり、共通の知り合いが立ち寄るのをみんなで相手したりなど、校内に自分の部屋を手に入れたもようなものだ。
五月も終わりのある日のこと、部室へ行くと、中からキーボードの音が聴こえてきた。バロック音楽のようだけど、題名は知らない曲が、小気味よいテンポで、リズムには全く乱れがなく、メロディが心地よく流れる。かなり弾ける人のようだ。
部室には卒業生が置いていった古びたキーボードがあるものの、普段あまり弾かれることはない。今いるメンバーでは、これだけ弾ける人はいないはずだ。知らないだけで、一年生で上手な子がいるのだろうか。
戸を開けてみると、そこにいたのは、部員ではない男子だった。しかも、彼の他には誰もいない。まさか、キーボードを弾くために勝手に侵入したわけではないにせよ、何事かと思う。今まで、誰かの友人として部室に来たことすらもない人だった。
香苗があまりにじっと見ていたのか、睨んだように思われたのか、彼は言った。
「さっき畑野と一緒にここに来たんだけど、トイレに行ってしまって」
自分が悪いのではないとでも言いたげだった。香苗と特に面識があるわけではないのに、敬語を使わない。校章についている学年カラーを見て、同じ学年だとわかってのことだろう。
「ああ、そう」
できるだけ素っ気なくそう言うと、自分の楽器をケースから取り出し、音叉で調弦を始める。彼はキーボードを弾くのを止めて、本棚から漫画本を取り出す。
(部員でもないのに、勝手に本棚をあさるなんて)
ひとこと言おうか迷ったが、畑野が持ってきた漫画だったので、とりあえずは黙っておくことにする。
まず、Aの音を合わせた。大体合っていたので、次の音を合わせようとしたときだった。
「あ、その音……」
突然、彼が口を開く。
「なにか?」
「Aの音、それでいいの?」
弦楽器の弦は、時間が経つにつれて弦が伸び縮みして音が変わってしまう。そこで、弾くときに、その都度弦の音を調節するのだ。基本的には、初めにAの音を音叉で合わせて、それを基準に、他の弦の音を調整していく。
もう一度音叉と比べてみる。たしかに少し低いかもしれないと思う。
「貸して」
言われるままに楽器を差し出すと、彼は自分でAの音を調整し直し、「こんなもんじゃない?」と言って、楽器を返した。もう一度比べてみると、確かにこちらの音の方が正しいように思えた。香苗は黙ったまま、それ以降の調弦を続けた。
調弦を終えると、
「その漫画、好きなの?」
と尋ねてみる。
「これ、僕のだし。畑野が持ってきたんだろう?」
「そうだよ。でも、借り物だとは言ってなかったけど」
「あいつめ」
彼は軽く笑みを浮かべた。
練習場所へ移動しようとすると、畑野が現れた。
「こいつは、同じクラスの佐久間っていうんだ。宿題教えてもらうために連れてきたんだ」
「まさか、今から部活さぼって宿題するの? 練習終わってからにしてよね」
「固いこと言うなよ、こいつ色々と忙しいんだよ」
「二年生がそんなことしてたら、一年生に示しがつかないでしょう」
「でも……」
畑野は佐久間をちらっと見た。
「今日はバイトが休みだから、部活終わってからでも大丈夫だ」
佐久間は、ごく自然に答えた。
「いいのか? それまでお前何してるんだ?」
「読みたい本もあるし、他の教科の予習しててもいいし、いくらでもやることはある」
「そうか、悪いなあ」
彼らは佐久間を残して練習教室へと向かった。
「悪かったな。びっくりしただろう。部室に知らない奴がいて」
「いいよ、べつに。それより、畑野君が私に気を使うなんて珍しいね」
畑野は顔をしかめた。
「あいつとなんかしゃべってたけど、知り合いなのか?」
「あんな狭い部室に二人だけで、何も話さなかったらその方が不審でしょう。最初は私だって、びっくりしたんだから」
「あいつとは今年から同じクラスになったんだ。席が近くて勉強ができるから、寝たときにいつもノートを借りてるんだ」
「ふうん。そして、宿題も写させてもらってるんだね」
「それはない。あいつケチだから、ヒントはくれるけど答えはくれない」
(そっちのほうが親切じゃないの?)
そんなことを思いながら廊下を歩くと、間もなく練習部屋に着いた。
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