第2話
高校生の頃、香苗はマンドリン部に入っていた。
マンドリンというのは、弦楽器の名前である。両手でコロンと抱きかかえられるくらいの大きさの、丸っこい楽器で、名前同様、見た目にもどこか愛嬌が感じられる。弦のならびはバイオリンと同じものの、知名度ははるかに低い。大学まで行けば、マンドリン部はそれなりに名の知れた部活になるのだが、高校でその名を知る人はほとんどいなかった。
香苗がマンドリン部に入ってからも、友人たちからは、「マンドリンって、新しい球技?」「マンドリルと何か関係がある部活なの?」というような、小馬鹿にされているような質問が多かった。
香苗は当初、ギターに興味を持っていた。軽音楽部に入ろうかどうしようか考えているうちに、四月も半ばに差し掛かっていた。軽音楽部は、結局電気を通した音がどうも好みではないような気がしたので、とうとう入らなかった。
毎日することもなく図書館でぶらぶらしていたとき、同じ中学校出身の畑野と、ばったり会った。
「お前まだ帰宅部なのか。ギター弾きたいなら、マンドリン部でもできるぞ」
畑野の後をついて歩いていると、どこからともなく弦楽器の音が聴こえてきた。入学式のときに、こんな音を聞いたことが思い出された。鈴を転がすような、細かな音の粒がこぼれているような音色だった。生演奏で、少人数で、スピーカーを通したわけではないのに、ぼやけもせず、体育館内に可愛らしく響いていた。
あのときは入学することで頭の中がいっぱいで、そんな部活動があるのだということは、そのあとすっかり忘れていた。
演奏されていたのは、明日に懸ける橋だった。流行したのは何十年も前のはずだけど、香苗がその曲を知ったのは中三のころで、当時の仲間の間になんとなく流れていた曲だった――高校に入ってから初めて聴いたのがそんな曲だったので、春から縁起がいいな、などと思っていた――そんな一連のできごとが、ぱっと目の前に現れた。
「ここが部室だ」
畑野は、階段の下に来ると、目の前にある扉を指す。確かに、わずかにドアが開いていて、そかこらさきほどの可愛らしい音が漏れてきている。しかし、これはどう見ても……、
「倉庫?」
「違うよ、部室だよ」
後ろから知らない人の声がする。
「畑野君のお友達?」
「ああ、入部希望者だ」
「私、A組の岩下美紀です。よろしく」
彼女は感じのいい笑みを浮かべた。思わず、「こちらこそよろしく」と言ってしまった。
彼女はドアを開けると、中からメトロノームを取り出し、また去って言った。
「先輩、入部希望者連れてきましたよ」
畑野がそう言って中に入ると、一瞬空気が固まったようだった。
「どうしたんですか?」
「いや、あの……」
「ギター、まだ余ってましたよね?」
「それがね、ちょっと前に決まっちゃったんだ」
「あれまあ」
少々拍子抜けしたものの、この半月、香苗はろくに友達もできないまま味気ない日々を送っていたので、このまま帰るのはなんだなと思った。さっき外で会った、美紀のような、あんな人ととだったらそれなりに仲良くできそうだった。
香苗はどちらかというと、おとなしくて自己主張をあまりしないタイプだった。服装で人を判断するのはよくないと思いながらも、さっきの美紀ははきはきしていたものの、制服を清楚に着こなしていた。先輩たちをみても、スカート丈や髪形から真面目そうな雰囲気が漂っている。ここでなら気後れしないで過ごせそうだという気になりつつあった。みんなでわいわい楽しく過ごしている部屋からそのまま去っていくができなくなり、なんとかここに留まらねば、と思った。
「私、それほどギターにこだわっているわけではないんです。ただ、ちょっと練習したことがあるので、他の楽器よりも馴染みやすいかなって思っただけなんで。弦楽器だったら、他のでもやってみたいです」
そう言ってはみたものの、他の楽器も、空きがないらしい。
「今年は入部希望者が多くてね、佐倉さんでもう四人目なの」
四人ってそんなに多いんだろうかと思いながら、頷いてみる。
「もう楽器が余ってないんだよね。自分で買ってくれるならいいんだけど、ちょっと部費で買うのは、すぐには厳しいかも」
「OBさんで、貸してくれる人探してみる?」
先輩たちは、困った様子だ。
「先輩、たしかあれ、誰も触ってないですよね?」
畑野が、部室の片隅で埃をかぶっている、ギターと同じくらい大きいケースを指す。
「ああ、セロね。壊れてるってわけじゃないんだけど、何年も前に、もっと人数が多かったときに使ってたものだから、今のメンバーでは、弾ける人がいないんだよね」
「弾ける人がいないって……」
「セロだけ、弦の並びがちょっと違うの。独学で弾けるようになってくれるならいいんだけど」
「経験がほとんどない一年生が、いきなりセロっていうのもね……、私達の誰かが変わった方がいいのかな? でもうちらの学年、みんなマイ楽器だしな……」
自分で楽器を買うほどの熱意はなかった。後から入ったのに、気を使ってもらうのも悪い気がする。
「やります。ピアノやってたんで、畑野君と違って五線譜は読めます。弦楽器もちょっとやったことありますり、多分大丈夫です」
思い切ってそう言ってみる。うそではなかったが、ピアノは中学生に上がる頃に辞めていたし、弦楽器はギターの講習会に四、五回参加しただけで、謙遜ではなく本当に少しだけだった。
「五線譜読めなくて悪かったな」
畑野がぼそっと言った。
「でも、大丈夫か? 俺が変わろうか? なんだか、あれ力がいりそうだし、それにこのマンドリンって可愛すぎて、俺が弾いてると、ギャグみたいに見えるって説もあるんだよな」
たしかに畑野は、ガタイがよく、マンドリン部よりも柔道部のほうが似合いそうな外見だ。みんな笑いながらも、ふとその中の一人が真顔になる。
「畑野君は楽器の経験ないし、マンドリンを始めたばかりだから、まずはこっちの弾き方を覚えて欲しいんだよね。弦の並びが違うと混乱しちゃうと思う」
「私はまだなにも覚えてないから、混乱しないよ」
「じゃあ、お願いしちゃっていいかな」
そうして香苗はセロを弾くようになった。
マンドリンの弦の並びはバイオリンと同じで、それに対してセロ弦の並びはチェロと同様だった。一番高いEの弦がなく、代わりに一番下にCの弦がついている。音域や見た目もさることながら、音も可愛らしいというよりは、図太いといったほうが適切だ。この部にはほかにも、マンドラというビオラのような楽器と、ギターがあった。最小四人いれば合奏できるという。昨年は、彼らが入るまでは、三年生と二年生と併せて五人だけで活動していたのだった。
音楽室は常に吹奏楽部が使っているので、マンドリン部の練習は空き教室で行われていた。そこで補修が行われると、倉庫のようなこじんまりとした部室で練習することになった。
人数が少なく、華々しい成果もなくて、指導してくれる顧問の先生もいない。ささやかながらも、生徒主体で活動するにはちょうどいい人数だ。
セロは他の楽器と比べて音域が低く、主旋律を弾くことはほとんどない。一番大きいので目立ってはいたが、香苗はいつも、弾いていてものすごく面白いと思うことは、特になかった。みんなからは「弾きこなしてるね」と言ってもらえるものの、彼女自身さほど自分の音に自信が持てないでいた。
流されるままに、文化祭、ボランティア演奏、卒業式をこなし、夢中になっているうちに、あっという間に一年が過ぎた。
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