夢みるころ
高田 朔実
第1話
十一月の夕暮れどきに、三日月よりも一日分細い月を見るまで、香苗はそういうものがこの世界に存在することをすっかり忘れていた。
初めてこんな月を見たのは、もはや十年以上前のことになっていた。ちょうどこんな時間帯のことだったと思われる。部活を終えて高校から帰るときに、ふと見上げた空に、今と同じ月が出ていた。
ふと見上げた?
いや、そうではなかったはずだ。だんだんと、当時のことが思い出されてくる。
そのとき一緒にいた人が、その月が見たいと言った。普段なら使わない歩道橋の上から見ることになって、香苗は彼の後について階段を上ったのだった。
それまで見たこともないような月の姿を見て、彼女はおそらく驚いたり、うっとりしたりしていたはずだったが、正直なところ、彼女の心にあったのは、半分以上が、そのとき隣にいた、同い年の男子生徒に対する感情だったのではないかと思う。しかし、そのとき自分が正確にはなにを思っていたのかなど、今となってはほとんど思い出せなくなっている。
転職してから半年ほど経ち、最近ようやく自分の時間が持てる生活に慣れてきた。
前職よりも給与は下がったが、その分仕事はのんびりしている。残業もしなくていいし、周りの人間関係にもそれほど神経をすり減らすこともない、勤務時間外は、安心して仕事のことを忘れられるのもよかった。香苗は落ち着いた日々を送れることの心地よさに、日々感謝していた。
やっぱり余裕があるのが一番だ、と思う。真面目なだけで乗り切れる時期は終わり、周りとの関係だとか、タイミングを見計らうだとか、調整だとか、そういうことを日々要領よくこなして、昨日よりも、より上手にできるようになって、そうやってずっと続けていくのは、自分には向いていないことを、彼女は前職で思い知らされた。自分は、言われたことをこつこつとこなしていくほうが向いている、たとえ地味だとしても。そのことがよく分かった。
早いうちに気がついてよかったのだと思う。前のペースで働いていたら、こんな時間に帰宅して、非常階段から月を眺めることなんてなかったことだろう。満月だったらまた気づくにしても、この月の面積はあまりに小さくて、それなりに余裕がないと視界に入っても捉えられそうにない。今こうしてこの月を見ているだけでも、転職をした価値があったと思った。
何人かの人が、階段の途中で立ち止まり、空を見上げる彼女の横を肩をすぼめながら、あるいは不審そうな面持ちで眺めながら下っていく。
月が、近くにの桜の木にさえぎられて見えなくなるまで、ほんの数分の間だった。明日になれば、月は一日分ふっくらして、親しみやすい三日月の形になっていることだろう。
月が見えなくなり、香苗はようやくその場を動くことができた。今年の十一月はまだそこまで寒くはない。紅葉もしているのかしていないのかわからないまま、それでも木についている葉の数は、日に日に減っていく。
歩き出しながら、月以外に自分が覚えていることはなにか、ちょっと考えてみる。
放課後の音楽室という言葉が、ふと思い浮かぶ。今思えば、それが始まりだった。
彼女は当時、音楽系の部活に入っていた。校内でも地味な部活だったため、彼女たちは、音楽室を部活で使ったことはなかった。常に大所帯の吹奏楽部に追いやられていた。吹奏楽部が音楽室を占拠していないのは、テスト期間中くらいのものだった。
だからあのときも、きっと、テスト期間中だったのだろう。放課後は、揃いも揃って同じように座っていないといけなかった時間が終わり、ようやく自分らしく振る舞えるようになるときだった。そんな中、香苗が唯一、放課後の音楽室において、具体的に思い出せる出来事に遭遇したのはたった一度だけだった。
十代の頃の記憶は日々薄れていく。生活を維持するのには、それなりに必死にならなければいけない。しかし、あの場所が残っている限り、いつでも行けば当時に戻れるのではないかと思う。あのときはあのときでそれなりにいろいろあったはずなのだけど、今から思えば、それなりに無邪気に、余計なことは極力考えないまま、ただわくわくしていればよかった日々だった。意図的に行こうとしなければ、行くことはないのだろうけれど。思い出しても仕方がないのかもしれないけれども。
時が経てば、忘れるか、どうでもよくなっていくのだろうと思う反面、記憶が薄れてしまうことに不安を覚えもする。相反する気持ちを抱え、なにも起こらないまま、もう何年が過ぎたのか。
この世界のどこかで、彼は今でも、ピアノを弾かないまま生きているのだろうか。それとも、たまにはピアノを弾くようになっているのか。
彼女は思う。彼がピアノを弾くようになっていたらうれしいけれど、自分のいない世界でそうなっているとしたら、それはそれでちょっと悔しくはあるな、と。どちらが自分の望むことなのかと考えてみて、もしかしたら自分はどちらも望んでいないのかもしれないなと思う。あのまま、ずっと自分と一緒にいてくれなかったのだから、なにをしていようが、もう知らないし、関係ない。どうでもいいことだと思いたかった。実際のところ、こうして今夜の月を見なければ、すっかり忘れていたはずだった。
あの人は今でも、私のことを覚えているのかしら、そう思うと同時に、風がふわっとマフラーを煽ったので、香苗はとっさに肩をすくめた。
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