げんこつ山の
北緒りお
げんこつ山の
もっと泣け、もっと恐がれ。獣に恐怖を持て。
顔を真っ赤にし泣いている子供に矢継ぎ早に幻術をかける。
タヌキに驚かされたのがよっぽど怖いのか、しりもちをつき動けなくなっている。タヌキの術にかかっている幼児には、オオカミのような声だけで人を裂くのではないかというような鋭い威嚇の声が聞こえ、眼前にはクマの爪を思わせる鈍くも鋭利な影がちらつき、その柔らかな肉体は一瞬で砕かれても不思議ではない恐怖を全身に浴びているのだった。
その危機を全力で伝えようとしているのか、泣き声はさらに大きくなり、このまま喉が裂けてしまうのではないかと思うぐらいに泣き叫んでいる。
ここまで怖がれば、タヌキの目的は果たされ、もう、この里に用はなくなる。
タヌキの巣穴に水たまりができるようになった。
家財道具らしいものはこれといったものはないが、いつも寝起きし、成獣になる前から住んでいた穴蔵なものだから、土のくぼみや穴の中に張り出してきた根っこのどれもが記憶にはっきりとしているのだった。
前足を泥だらけにしながら水を掻きだしてみたが、大雨の後に降った雪のせいか、じわじわとにじみ出てきて、それでも凍えそうになりながら泥水を追い出しても、しばらくすると元のような水たまりができるのだった。
こんな時期に巣穴を変えることになるなんてと落胆する余裕もなく、どうしたものかと思案していた。
人里から離れた山の上、山と言っても大人がちょっとがんばれば小一時間で頂上まで行くような、小高い盛り上がりの上に寝床を作っていた。ときどき人里へ降りては、人の生活の隅っこに忍び込み、いたずらを仕掛けたり、子供にちょっかいを出したりして遊んでいた。
大人相手であれば、そこらへんの砂利を寄せ集め幻術の力で米に見せかけ他の食べ物と交換させたりと腹を満たすためのこともあるのだが、子供相手では遊ぶぐらいしかできない。
この村で一番小さいのだろう。やっと歩けるような子供が、親の目を盗んでは庭先を歩いたり、勝手口から抜け出して、ほんの少しの大冒険をしていた。タヌキはその子が一人でいるのを見つけると、シッポの毛を膨らませて、ふさふさとさせたのを子供の目の前で振ったりして遊んでやっていた。まるでよく熟れた桃みたいにやわらかそうなほっぺに触れるぎりぎりまでシッポを近づけてぶんぶんやっていると、懸命に小さな手を伸ばしてつかもうとする。つかめるかというぎりぎりまでシッポを近づけてやって、つかもうとした瞬間にひっこめる。
子供ははじめはうれしそうにシッポをつかもうとするが、シッポの引っ込め方を変えてやると、まるでくすぐられているかのように笑い始める。笑いはじめて、大きな声を出して興奮し始めたらこの遊びは終わりだ。笑い声に気付いて様子を見に来た親に見つからないように退散しなければいけない。
退散しながらも、子供が笑い転げたり、まだ遊びたそうにしている声を少しでも聞いていようと、こんもりとした耳だけはそちらに向けて駆けていった。
人里に降りるたびにその子供の家に立ち寄るようになり、子供がいれば少しのちょっかいを出して帰るのが習慣になりつつあった。やっと乳飲み子から卒業したぐらいのほっぺたはまるまると膨らみ、こっちをみてニコニコと笑うその笑顔は、巣穴に戻る前に心に優しい明かりをともしてくれるような気がした。
落ち葉の頃、子供は自由に歩き回るようになり、裏庭に紐でつながれ、むやみに遠くにいけないようにされていた。つながれている様子を見て、まるで犬のようだなと思い、通り道にドングリが落ちていたのを思い出した。子供の退屈しのぎになるかといくつかくわえて持って行ってやった。
いつも遊んでやっているからか、近づいたところで警戒されることもなく、シッポにさわりたいのか手を伸ばしてこっちを見て何か声を出している。残念だけれども、人間の言葉はわからないので身振り手振りだけで読み取る。こちらを怖がっていないどころか、仲良しだと思って遊ぼうとしているのだろうと感じた。
くわえているドングリを地面に置き、鼻で子供の方に転がしてやる。
物を放ってやるのははじめてのことで、子供は興味深そうに転がるドングリを見ていた。
足下まで転がってきたのを、しゃがみ込んでやっとつまみあげると、なにやらおおきなことでも成し遂げたように大きな声を出し喜んでいた。
機嫌の良さそうな声をあげているが、すぐに親御がきてしまう。もっと上機嫌の声を聞いていたかったが引き上げないといけなかった。
獣を恐れないのは構わないが、警戒しないと肉食獣の餌食になってしまう。一抹の不安がタヌキの中に生まれたのだった。
それからしばらくしてのことだ。子供をかまってやろうと寄ってみると、あいかわらず裏庭につながれていた。けれどもその手にはいくつかのドングリを握っていて、まえにくれてやったのとは違うドングリのようだった。
子供が驚かないように、まずは耳を動かしてみたり、シッポを膨らませてみたり、髭を動かしてあやしてみたりする。満面の笑みでこっちで見ていると、いつもと違う動きをしている。指先に摘まんだドングリを、こっちに差し出しているのだった。
これで投げて遊ぶのかと思ったら、こちらにドングリを差しだしている。
ドングリをもらえるなんて思いもしなかったものだから、おそるおそる近づいて、何粒かの贈り物をそっとくわえて巣に戻ったのだった。
巣穴のなかで巣材に紛れ込んで無くさないように、大きめの落ち葉の上にドングリを並べた。
目の高さに少しだけ横に土を掘り、いつでも見えるようにしていた。
水がでたときに真っ先に外に出したのもそのドングリで、真冬のどんな寒さもそれが見えていれば越えられるような気がしたからだった。
巣穴を変えるとなると、ほかの山に行かなければならない。
人里からも遠くなり、あの子供にも会えなくなる。
そう考えると、タヌキには一つやらなければならないことがあると気付いた。
人里はこれから行く山とは逆方向だ。
それでも、子供に会って行かなければならない、と考えたのだった。
山を移動するのには大した荷物は無かった。竹竿の先に竹の皮で作った小さな袋をぶら下げ、ひたすらに歩いていくだけだ。人里に寄るにしてもほぼ身一つみたいなものだ。
夜のうちに子供のいる家にたどり着くと、物陰に隠れて、待つことにした。
朝、そして、昼。太陽は真上を通り過ぎて、また地平線の向こうに行こうとしていた。
影が長くなろうというそのとき、子供が庭先に一人で出てきた。
最後に一目会わなければならない。
タヌキはいつもと違い、子供の前に飛び出すと、後ろ足で立ち上がり、そして前足を掲げ威嚇した。それだけでは物足りず、幻術を使いおどろおどろしい空気をまとわせ、とにかくこの子を泣かさなければならなかった。
子供は目を見開き、あまりのことに動くこともできず、ただただ驚きの表情でこちらを見るのだった。
しばらく視線をそらさずこちらを見つめていたかと思うと、急に泣きはじめた。
その激しい泣き声は、驚かそうとしたときに小石でもとばしてしまい、子供の体を痛めてしまって泣かせてしまったのではないかと心配になるぐらいだった。
子供の体中に素早く視線をやる。傷や痛がっているそぶりはない。タヌキの変化に驚いて泣いているのだった。だめ押しの幻術でさらに泣かせる。オオカミがそうするように大きな身振りで一吠えする。幻術にかかっている子供からしたら、大地を裂かんばかりの声が鳴り響いているはずだ。さらに驚き、その小さな体からよくもそんな大きな鳴き声が出せるものだと思うような、体中から響かせているような泣き声をあげる。
そうだ、そうやって獣を怖がらなければならない。
子供が泣き叫び、恐怖のあまりなのか立っていられず尻餅をついている様を見て、もう、引き上げなければならないと考えた。
家から大人が出てくる。
タヌキは、引っ越しの小荷物を拾い上げると山の方向に駆けだした。
荷物の中からドングリが転がる。やっとのことで一つだけくわえると、全力で走った。
げんこつ山の 北緒りお @kitaorio
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