第10話 朝

泣くのは家に帰ってからにしようと駅までの道を辿っていると、背後からの声に歩みを止める。


それは先程別れた彩葉ちゃんで、上がった息は走って追って来たことを伝えた。


「家まで送ります」


そんなことをしてくれなくても家に帰れると首を横に振ったものの、彩葉ちゃんは諦めなかった。


「もう田町さんが嫌がるようなことは何もしません。ただ、途中で泣き出さないか心配なので送らせてください」


まだ、もう少し一緒にいられる時間を持てる。それが嬉しくて拒否しきれずに許しを出す。


それでも遠慮して彩葉ちゃんはわたしの数歩後ろをついてくる。


早朝の人気のない電車で一人分の間隔を開けて座って、わたしが降りるのに合わせて、彩葉ちゃんも電車を降りる。


駅からわたしが住んでるマンションまでは数分の距離で、マンションに入るとエレベータではなく階段で2階までを登る。


それはいつものくせで、彩葉ちゃんは一定の距離を保ったままついてきてくれていた。


203号室がわたしの部屋で、鍵を開いたところで彩葉ちゃんに少し話をしないかと声を掛けた。声を掛けなければなんとなく、このまま彩葉ちゃんは帰ってしまいそうな気がしていた。


「部屋に入ってもいいんですか? 不安なら手首を縛るとかして頂いても構いません」


それで彩葉ちゃんが昨晩の行いに後悔をしていることは知れた。大丈夫だからと緩く首を振って、彩葉ちゃんを部屋に招く。


実家からほとんど着の身着のままで飛び出したこともあって、わたしの部屋ははっきり言って物が少ない。最低限の生活必需品は買いそろえたけれど、生活色に乏しいことは自覚していた。


その部屋に彩葉ちゃんを通すと、


「すみませんでした。謝って済む問題じゃないことは分かっています。できれば、忘れて頂けると嬉しいです」


部屋に入るなり床に膝をつけて彩葉ちゃんは屈み込み、深々と頭を垂れる。


そんな彩葉ちゃんの前にわたしも膝を落として屈み込んだ。


「忘れられるわけないじゃない……」


「すみません。許されないことをしたのは分かっています。田町さんの気の済むようにしてください。殴って頂いても構いません」


「そんなことできないよ。どうしてあんなことしたの?」


謝るのであれば初めからしなければ良かったのにと思う気持ちがあった。


ただの性欲の暴走でなかったこともわたしは知っている。でも、昨晩の彩葉ちゃんと今朝からの彩葉ちゃんの態度がちぐはぐで、どう取ればいいのかわたしは迷いがあった。


「…………すみません。本能ですとしか言えません。今まで理性で我慢していただけで、ずっと田町さんとそうなりたいと思っていました。もちろんそれは田町さんが承諾してくれない限り求めていいものじゃないということも分かっていたつもりです。でも、お酒のせいもあって昨夜は本能のまま襲ってしまいました……すみません」


「忘れられないよ……わたしの前から去るのに、なんであんなことしたの……愛してるって一晩中囁かれて、体に触れられて……忘れられないじゃない」


「すみません」


わたしの言葉に彩葉ちゃんは更に体を屈めて土下座をする。


「相阪さんを、わたしは忘れたくないし、忘れられないよ」


まだわたしの体に彩葉ちゃんがくっついていた時の感覚が残っている。それは一度覚えたら手放したくないとさえ思ってしまうものだった。


「そう言っていただけるのは嬉しいです。でも、それは田町さんを苦しめるだけではないでしょうか?」


「それなら苦しまないように、毎日顔を見せてくれればいいんから」


「でも、私の退職はもう決定事項なので、今更覆せません」


「じゃあ、ここに来てくれればいいから」


物理的にもう彩葉ちゃんの退職が回避できないのはわたしも分かっていた。それならば、彩葉ちゃんに会うのはプライベートでしかない。


「田町さん、それは私に昨日の夜と同じことを、この部屋でもしてもいいと許すことになりますよ。それでもいいんでしょうか?」


「………………」


そうか、堂々巡りをしているな、とわたしは改めて思う。


わたしは彩葉ちゃんに会いたくて、彩葉ちゃんはわたしに触れたくて、互いを求めていても意識がずれているから噛み合わない。


「昨晩は本当にすみませんでした。私のことはもう忘れてください。気持ち悪かったって思って頂いても構いません。もう田町さんの視界には姿を出さないようにします。今までお世話になりました。最低な最後になってしまってすみませんでした」


わたしの沈黙を拒否だと受け取ったのだろう。彩葉ちゃんの声は上擦っていて、涙も溢れている。手で目元を拭いながら言い切ると、彩葉ちゃんは立ち上がってそのまま玄関に向かっていく。


「そんなの、淋しさに耐えられるわけないじゃない。離れないで」


出て行こうとした彩葉ちゃんの腕をわたしは引き留めていた。


「田町さん……」


「何してもいいから……」


離れないことの代償が自分の体なのだとしたら、それしか自分には選択肢がない気がした。

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