第8話 涙

踏ん切りがつかなくて閉店時間まで飲んで、追い出されるように会計を済ませて店の外に出る。これで別れないといけないと思うとまた涙が溢れてきた。


「泣かないでください」


「だって、もう、最後なんでしょう?」


わたしが傍にいて欲しいと思った存在は、いつもわたしから離れてしまう。


わたしのものではないのだから、わたしには何も残らない。


社会人になれば、それは当たり前のことだった。


「すぐに私のことなんか忘れます」


「忘れられるわけない。忘れたくない」


わたしが断ったから彩葉ちゃんは会社を辞める。


こんなことになるくらいなら、受け入れれば良かったとさえ後悔していた。


「有り難うございます。少しでも田町さんとデートができて、手を繋いで歩けて幸せでした。夢のようでした。でも、田町さんは私のことなんてもう気にしないでください。私は女性しか愛せないから苦しくても淋しくてもそうあるしかないんだって覚悟はできていますから」


「誰にだって幸せになる権利はあるでしょう。今日なんて終わらなければいいのに……」


不意に目の前の存在に抱き締められ、反応を示すより前に唇に触れるものがあった。触れるだけではなく貪るようなそれが何であるかを理解できないまま囚われる。


「今日を終わらせたくないなら、この続きしますよ。逃げるなら今です。逃げなかったら私の好きにするので、逃げて下さい」


そんなことを求めていたのではない。欲しかったのはただ一つ彩葉ちゃんの笑顔だけだった。でも、それは最早彩葉ちゃんと永遠の別離になるか、ならないかの二者択一でしかないのかもしれない。


それでも動けないままのわたしの手を引いて彩葉ちゃんが歩き始める。歩くことを促すものの、振り解こうと思えば簡単に振り解ける力しかその手には込められていない。


逃げていいと言われているのに、わたしはその手を振り払えなかった。もうそれはわたしに残された最後の温もりに思えた。


特徴のある電飾の場所が何かであるかはわたしも分かっていたけれど、彩葉ちゃんは躊躇いもなく先を歩いて行く。


どこかで思いとどまってくれるのではないかという淡い期待は結局叶わず、部屋に入るとそのまま彩葉ちゃんにベッドに押し倒された。


わたしよりも背が低い彩葉ちゃんのどこにそんな力があるのかと不思議だったけれど、そんなことを考える暇など与えられず彩葉ちゃんに再び唇を奪われる。


「愛してます」


欲望に満ちているのに、その声は心地よさがある。欲望に満ちているのに、その声は心地よさがある。普段よりもかすれた声で耳元に囁かれ、抵抗する力すら削がれる。


わたしのことを好きだとは言っても、今まで彩葉ちゃんからの性的なアピールはほとんどなかった。でも、それはずっと遠慮して今まで見せて来なかったことに、こうなってみてようやくわたしは気づく。


本当に本当に彩葉ちゃんはわたしのことが好きで、肉体的にも結ばれることを願っていたのだと。


これでもし彩葉ちゃんが手に入るのであれば、と甘美な誘いがわたしにはあった。


これは彩葉ちゃんを取り戻せる本当に最後の機会なのだ。


力のままに押し倒されて、動くことも逃げることもできずにいるわたしの着衣が解かれて行く。


何をするかということくらいはわかっていたつもりでも、感覚で味わう行為はまた別物だった。


恥ずかしさで体を手で覆い隠そうとしても彩葉ちゃんには通じなくて、与えられる快楽に翻弄されるわたしを一方的に貪って行く。


「愛してます。離したくない、離れたくない」


離れるくせに、と睦言のように恨み言を囁くと唇が塞がれる。彩葉ちゃんには今までも経験があるのだろう、手慣れていてわたしはただ受け入れることしかできなかった


「報われない辛さなんて、田町さんは知りませんよね。心を殺し続ける辛さなんて知らないくせに……」


恋をするということにおいては彩葉ちゃんの言葉通りわたしはそれを知らない。


でも、心を殺し続けて逃げ出した過去がわたしにはある。それでようやく逃げ出すという彩葉ちゃんの思いが少し理解できた気がした。


その夜、彩葉ちゃんの求めのままわたしは体を開いて、生まれて初めて他人と肌を合わせた。


彩葉ちゃんに抱き寄せられて、気怠さの中で眠りに落ちる。


「愛しています」と彩葉ちゃんは何度もわたしに囁いてくれた。


彩葉ちゃんはわたしの心に空いた穴を満たしてくれた。


それが何なのかをわたしは分からない。でも、不安をかき消してくれるものだった。





目を開く前に、すぐ傍に人の気配があることにわたしは気づく。自分の中で今を合わせるのに少しだけ時間を要して、昨晩のことを思い出す。


目を開くと、そこはベッドの上で、既に覚醒していた彩葉ちゃんが全裸のまま身を起こして座っている。


昨晩のことが間違いのない事実であることを、わたしに再認識させて、どう接すればいいかを迷わせる。


「大丈夫ですか? 服を着て出ましょう」


それに肯きだけを返して、散らかった服を引き寄せてまずは服を着る。


くっついてくるでも、謝るでもない彩葉ちゃんの態度はわたしを迷わせた。まるで何もなかったかのような態度は、ホテルを出てから決定的になった。


「ここで解散しましょうか」


頷いて別れた後、駅に続く道を一人で歩き始める。


ビジネス街の早朝にまだ人気はほとんどなくて、物淋しさが漂っている。まるで自分の心のようだと思いながら、小さく溜息を吐いた。


昨晩のことは幻だったのかもしれないと思いながらも、わたしの体には、昨晩の余韻がまだ残っている。彩葉ちゃんが最後だから襲ってしまえと思うような人ではないとは信じている。


でも、わたしと彩葉ちゃんはこれで終わり、なのだとまた涙が目元まで湧き上がってきていた。

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