小説「タイトル未定」

小説家 川井利彦

第1話

その日は朝から雨が降っていた。


いつもと変わらない日曜日なのに、どんよりとした空と湿度の高い居心地の悪い空気のせいで、気分が上がらない。


こういう日は、一日中家でゴロゴロしているに限る。


寝間着として愛用しているスウェットのまま、布団の上に寝転がる。


ふと時計を見ると、午前10時を少し過ぎたところだった。


昼飯を何にしようか、考えていると、チャイムが鳴った。


日曜日のこんな時間に誰だと訝しく思ったが、宅配便かと思い、鉛のように重たい身体を起こした。


「はーい」と玄関を開けると、見知らぬ男性が立っていた。


痩せ型でひょろっとした体型に、まるで枯れ枝のような細い腕は、病的なものを感じさせた。


服装は黄色のアロハシャツに縞模様のハーフパンツ、外は雨が降っているはずなのに、髪の毛は濡れている気配が全くない。


戸惑いながら「あの・・・何か?」と言うと、男性が口角をあげ微笑んだ。


「突然、すみません。あなたが『林すみか』さんですか?」


「ハァー」と困惑気味に答えた。


すると男性は「そうですか」と笑顔のまま、足を踏み出し突然玄関の中に入ってきた。


「えっ何!」


とっさに後ろに身体をひいてしまったので、あやうく転びそうになる。


「ちょっと何ですか?」


恐怖と怒りで顔を強張る。


男性は、目元を細め歯を見せると「大丈夫ですよ」と気味の悪い微笑みを浮かべた。


その時、突然右頬に痛みが走り、口の中に鉄の味が広がった。


よく見ると目の前にいる男性が、左腕を振り上げている。


男性は、振り上げた左腕を鞭のように、しならせ私の頬を打つ。


驚きと衝撃で、腰から崩れ落ち、尻もちをついてしまう。


「ちょっと―――」声をあげようとして息を飲んだ。


悪魔のような笑みを浮かべた男性が、片足を上げている。


上げられた片足が、私の腹部に勢いよく落とされた。


これまで味わったことのない痛みに、息が止まる。


男性は容赦なく私の腹を、何度も蹴り上げた。


必死に腹を守るが、男の力を防ぐのは容易なことではない。


そのうちに、段々と痛みを感じなくなってきた。


遠のく意識の中、天から笑い声が降り注いだ。


男性は、私の腹を蹴りながら、楽しそうに高笑いを上げている。


足先が腹部にめり込む音と男性の笑い声を、聞きながら目の前が徐々に暗転していった。



窓から見える空は、分厚い雲に覆われ、大粒の雨が容赦なく、地面を叩きつけている。


梅嶋陸斗は、机の上に突っ伏したまま、何気なく外を眺めていた。


日本に近づいている台風の影響で、昨夜未明からどしゃ降りの雨が降り続いていた。


そのせいで、登校するわずか十五分の間に、ズボンの裾や靴の中まで、ぐっしょりと濡れてしまった。


母親に学校まで車で送ってほしいと頼んだが、弟の海斗を送るから無理だと、あっさり断られた。


私立中学に通う海斗は、電車なんだから必要ないと、訴えたが聞き入れてもらえなかった。


どうやら海斗は、朝の満員電車が苦手らしく、最近は倍の時間をかけて、わざわざバスで通っているようだった。


どうりで先月くらいから、家を出るのが早かったわけだ。


そうだとしても、わざわざ送ってやる必要はないだろと言ったが、大雨の影響でバスの運行が遅れる可能性があるため、送ってやらねば遅刻してしまうと、母親は海斗を連れて家を出て行った。


残された陸斗は仕方なく、大雨の中傘を差し、トボトボと歩いて学校へ向かうしかなかった。


昼休みになっても、一向にやむ気配がなく、さらに雨足が強くなった。


陸斗が、この雨の中をまた歩いて帰るのかと、憂鬱な気分でいると、恋人の越川璃々乃が声をかけてきた。


まっすぐに切りそろえられた前髪に、ウェーブのかかった後ろ髪、頬の上にうっすら見えるそばかすとやや垂れ目になった目元から、小動物のような印象を受ける。


「陸斗、来週のこと覚えてる?」


弁当のフタを閉じながら「ああ」とぶっきらぼうに答えた。


「ディズニーランドだろ。覚えてるよ」と小さく頷く。


陸斗の不機嫌な態度を、訝しく思ったのか、璃々乃が「どうかしたの?」と聞いてきた。


「別に・・・。雨がうっとうしいだけ」


めんどくさそうに片手を振ると、璃々乃が微笑んだ。


「何それ」


口元をおさえて「フフフ」と笑う璃々乃に、ほんの少し腹が立った。


「・・・雨はきらいなんだよ」


頭脳明晰、将来有望の弟ばかりを可愛がる母親も、週末のデートにはしゃぐ璃々乃も、陸斗の気持ちがわかるはずもない。


「それより、そろそろ教室に戻らなくていいのか。授業始まるぞ」


黒板の上にかけられている時計に、目を向ける。


「えっ知らないの?」


璃々乃が少し目を見開いた。


「何が」と陸斗が怪訝な表情を浮かべる。


「台風が近づいているから、午後の授業はなくなったよ。お弁当食べたら、すぐ帰宅しろってさっき先生が・・・。だから一緒に帰ろうと思って」


よく見ると周りのクラスメイト達も、帰宅するための支度を始めている。


陸斗はその様子を、目を点にして眺めていた。


「陸斗。大丈夫?」


璃々乃が心配そうに、顔を覗き込む。


大きな黒目に、困惑の色が映っていた。


「・・・うっかりしてただけだよ。そうだな。一緒に帰ろう」


取り繕うように、明るい声で言った。


「うん」


戸惑い気味に、璃々乃が頷いた。


「じゃあ下駄箱の前で待ってるね」と璃々乃は、自分のクラスに戻って行った。


弁当箱をしまい、鞄を机に置いた陸斗は、帰宅の用意を始めた。


しかし、早退の話はいったいいつ連絡があったのか。


雨が気になって、一限目から先生の話が全く耳に入ってこなかったのは、確かだ。


だがいくら何でも、そんな大事な連絡を聞き逃すだろうか。


首を傾げながら陸斗が教科書をしまっていると、クラスメイトの北條雄太が近づいてきた。


「璃々乃ちゃんって可愛いよな。彼氏の陸斗が羨ましい」


茶髪に丸顔の雄太が、ニヤニヤと目を細めた。


璃々乃と付き合い始めたのは、三ヶ月前のことだ。


授業が終わり、学校から自宅に向かっていると、突然後ろから声をかけられた。


振り返ると隣のクラスの女子が、肩で息をしながら立っていた。


どうやら、走って追いかけてきたらしい。


何度か顔を見たことがあったが、名前も知らないし、話をしたこともない。


「あの・・・。何か?」陸斗が困惑していると、突然頭を下げた。


「お願いです!私と付き合ってください!」


ロクに話したこともない相手から、告白されるとは思ってもみなかった陸斗は、目を白黒させた。


「えっいや・・・。はっ」


しどろもどろになっていると、彼女が顔を上げた。


「ダメですか?」


潤んだ瞳でこちらを見上げた姿に、可憐な儚さと抱きしめたくなるような可愛らしさがあり、陸斗の心は締め付けられた。


「別にいいけど・・・」


陸斗がそう答えると、「ホントに!」と飛び上がって喜んだ。


憐れみと可愛さに負けて、とっさに了承してしまったが、まだ名前も知らない相手と付き合って、うまくいくのだろうか。


陸斗のそんな不安をよそに、「私、越川璃々乃。よろしくね」と微笑みながら手を差し出した。


おずおずと差し出された手を握った。


「僕は―――」


「知ってる。五組の梅嶋陸斗君でしょ」


陸斗はぎこちなく頷いた。


「あの・・・。越川さんはなんで僕と・・・」


「えっそんなの決まってるじゃん。好きだからだよ」


何の躊躇いもなく、そんながことが言えてしまう璃々乃が、別世界の人間に思えた。


「これからは璃々乃って呼んでね」


弾けるような笑顔で、璃々乃が言った。


「梅嶋君のことは、陸斗って呼んでもいい」


「あっ、うん」


頬をひきつらせ、ぎこちない笑顔で答える。


「じゃあ今度の日曜日デートしようね。じゃあね。これからよろしく」


手を振りながら、元来た道を走って引き返す。


その後ろ姿に、軽く手を振った。


まるで一陣の風に、吹き流れていった璃々乃は、実は幻だったのではないか。


陸斗は、夏の終わりの夕焼けに照らされ、一人呆然と立ち尽くしていた。


始めこそ、戸惑ったがその後の璃々乃と陸斗の関係は良好だった。


明るく活発な璃々乃が、消極的で奥手な陸斗をリードし、喧嘩もなくいい関係が続いていた。


二人の関係は、すぐに噂になり、お似合いのカップルとして、周りも羨ましがるほどだった。


「雄太には、桜乃ちゃんがいるだろ」


北條雄太と交塚桜乃が交際していることを、クラス中が知っている。


「それがさ」と雄太が唇を尖らせた。


「桜乃のやつ、別の男とデートしてたみたいなんだよ」


「マジ?」と陸斗が好奇の眼差しを向ける。


「マジだよ。部活の後輩が、駅前を歩いてるところ見たって言うんだよ。めちゃめちゃ楽しそうだったって」


不愉快極まりないといった表情で、雄太が言った。


雄太と桜乃が付き合い始めたのは、半年前だった。


元々桜乃は、一年上の先輩と付き合っていたが、雄太の猛烈なアプローチに心を動かされ、別れたという経緯がある。


金髪と派手なメイクでノリの良い桜乃は、男子から人気があり、彼氏が途切れたことがないという噂も耳にしたことがある。


そのせいか、同性からは鼻つまみ者扱いされ、学校では浮いた存在だ。


雄太もその辺りのことを知ってる分、後輩の目撃談は、気が気ではないだろう。


「本人に聞いてみろよ」


陸斗がそう言うと、雄太は激しく首を振った。


「無理無理無理!そんなこと聞いたら、私を疑ってるのかって桜乃キレるもん」


だが、本人に確認してみないことには、どうにもならないのではないか。


「それでさ陸斗に頼みたいことがあるんだよ」


雄太が顔の前で、両手を合わせた。


「璃々乃ちゃんに、本当のとこどうだったのか、桜乃に聞いてもらうよう頼んでくんね」


パッと見、性格が合わなそうな璃々乃と桜乃だが、実は二人は仲が良い。


先日も二人で、出かけたと璃々乃が楽しそうに話していた。


きっかけは璃々乃と桜乃の名前が似ていることだったそうだ。


金髪と派手なメイクで、クラスメイトから敬遠され、教室の隅で一人ぽつんとしていた桜乃に、璃々乃から「名前が似てるね」と声をかけた。


「自分で璃々乃に頼めよ」


ぶっきらぼうに答えた陸斗に対し、「そんなこというなよ」と雄太が泣きそうになりながら言った。


「彼氏のお前から頼んだ方が、璃々乃ちゃんも、聞き入れやすいだろう」


当事者の雄太から、頼まれた方が、璃々乃も受け入れやすいと思ったが、必死に懇願する姿に、断りにくくなった。


「わかった。璃々乃に言っておくよ」


暗かった雄太の顔が、パッと明るくなった。


「ありがとう!この恩は一生忘れないよ」


「大袈裟だな」と苦笑を浮かべた。


陸斗と雄太は中学から一緒だったが、よく話すようになったのは、高校に入ってから、しかもつい最近のことだ。


風の噂で聞いたのか、突然雄太の方から「梅嶋さ、四組の越川とつきあってるんだって」と話しかけてきたのが、きっかけだ。


これまで共通点のなかった二人が、お互いの彼女が友達同士というだけで、なんとなく親しくなった。


こんなことでも友達ができるのだと、陸斗は不思議に思ったと同時に、少しだけ嬉しかった。


臨時のホームルームが終わり、下駄箱に向かうと、璃々乃が一人で待っていた。


「璃々乃」と声をかけると、こちらに顔を向けた。


「陸斗」と笑った顔が、いつもより輝いて見えた。


二人で談笑しながら昇降口に向かうと、すれ違う同級生達が、ちらちらと視線を送ったり、下駄箱の隅でこそこそと噂話をしている。


学校という閉鎖された空間の中で、他人の色恋沙汰は、格好の獲物だ。


それは重々承知の上だし、自分も雄太と桜乃の話で、盛り上がったこともある。


だがいざ自分のこととなると、あまり気分のいいものではない。


かと言って、彼や彼女らに文句を言うような気概も勇気もない。


そんな臆病な自分が嫌になるときもあるが、ならばと自分を変えようとも思わない。


「雨、少止んできたね」


傘を手に持った璃々乃が、空を見上げている。


見ると登校時ほど雨足は強くなく、そのおかげで、陸斗の気分も幾分か上向きになった。


雨の中を二人で歩きながら、学校のことや家族のこと、ネットで話題のアイドルのことなど、他愛もない会話を楽しんだ。


特に璃々乃は、週末のディズニーランドを楽しみにしているようで、ハロウィンイベントがどうのこうのと、期待に胸を膨らませていた。


陸斗は傘があるせいで、璃々乃と距離ができてしまっていることを、歯がゆく感じていた。


ほんのわずかな距離ではあるが、傘がなければもっと近づくことができるのにと、より一層雨を憎らしく思った。


「桜乃もね。ディズニー行きたいって言ってたよ」


璃々乃の話を聞いて、陸斗は雄太との約束を思い出した。


「そういえば雄太が、璃々乃に頼みたいことがあるって」


「んっ?」と首をかしげる。


「桜乃に聞いてほしいことがあって・・・。後輩が、桜乃が駅前を別の男と二人で歩いてるのを見たって言ってるらしいんだ」


璃々乃の表情が曇った。


「それをその・・・」


陸斗が言いにくそうにしていると、「浮気してるのか、私に確認してほしいんだ」璃々乃が冷めた口調で言った。


「俺はそんなことはないって、言ったんだけど・・・」


自分が悪いことをしているわけではないのに、何故か言い訳がましいことを口にしてしまう。


「そんなの自分で桜乃に聞いてみたらいいじゃん」


明らかに不機嫌になった璃々乃が、声を落とす。


「俺もそう言ったんだけど、桜乃が怒るから、直接は聞きにくいらしいんだ」


「だったら自分で私に頼めばいいじゃん。なんで陸斗が私に聞くの」


怒りの矛先が、突然陸斗に飛んできた。


「もちろん、雄太から頼んだほうがいいって言ったよ。でもあいつが、俺から頼んだ方が璃々乃も聞き入れやすいだろって言うから」


「本人からちゃんと、言ってもらった方がいいに決まってるじゃん!」


憤慨した璃々乃が、目を釣り上げた。


こうなると、璃々乃は少し扱いにくくなる。


「あのね。よく考えて。大好きな友達に、あなた浮気してるでしょって聞くんだよ。誰がそんなこと聞きたいと思うの。それで私と桜乃の仲がこじれたら、どうするの」


「何もそんな直接的な聞き方しなくてもいいんじゃない・・・」


陸斗の反論に、さらに怒りのボルテージが上がる。


「じゃあ逆に遠回しな聞き方って何?この前、男の人と駅前歩いてたよね。あれは誰?お兄さん?バイトの先輩かなあ。そんな嫌味な聞き方ってある?桜乃ガチギレするよ」


「いやだから、そんな聞き方じゃなくて、もっと上手い聞き方があるだろ。てか俺にキレるなよ。文句は雄太に言ってくれ」


また雨足が強くなってきたのか、傘やアスファルトを打つ音がうるさい。


そのせいか、二人とも自然と話す声が大きくなっていった。


「雄太には後でちゃんと文句を言うけど、今怒ってるのは陸斗が、そんなことを軽々しく引き受けたことだよ」


「えっなんで?」


自分が否定されたことに、陸斗は腹が立った。


「もっとちゃんと私の気持ちを考えてほしかった。友達に浮気してるか聞いてこいなんて、自分の彼女に言ってほしくなかった」


「だからそれは、雄太に頼まれたから仕方なく―――」


「自分の彼女より友達の方が大事なんだ・・・」白けた表情で璃々乃が言った。


陸斗は思い切り、顔をしかめた。


「ハッ何それ。めんどくせー」


ものすごい剣幕で、璃々乃が振り返った。


「今私のことめんどくさいって言った?」


かなり不味い展開になってしまった。


ついうっかりとはいえ、絶対に踏んではいけない地雷を、土足で踏み散らかしてしまった。


しかし陸斗ももう引き下がることはできない。


その後は、売り言葉に買い言葉の、口汚い言い争いになった。


結局最後は、半べそをかいた璃々乃が走ってその場を去ったことで、うやむやのまま終わりを迎えてしまう。


さらに勢いを増した雨と風のせいで、傘はもはやその役目を果たしていなかった。


陸斗は頭の上から足の先までを、ぐっしょりと濡らし、璃々乃が走り去った後を、苦々しい思いで見つめていた。


「だから、雨は嫌いなんだ」


荒ぶる風と強雨が、陸斗の言葉をかき消した。


2


憂鬱な気分を抱えたまま陸斗が帰宅すると、母親が驚いた顔で、出迎えた。


「ちょっとびしょびしょじゃない。早く拭いて」とタオルを投げてよこす。


身体を拭いて私服に着替えていると、「海斗の学校も短縮授業になったから、さっき帰っきたわよ」


「帰りは迎えに行かなかったの?」とたっぷりの皮肉を込めて言った。


「終わったら連絡してって伝えたのに、海斗一人でバスで帰ってきたのよ。おかげでびしょ濡れ。風邪でも引いたら大変よ」


俺は風邪を引いてもいいのかと、思ったが口には出さなかった。


「そうそう。来週から海斗の新しい家庭教師の先生が、みえるからよろしくね」


「よろしくって何が」


言ってることの意味がわからないと、陸斗は眉をひそめた。


これまでも何回か、海斗の家庭教師が来たことはあったので、別に珍しいことでもないし、陸斗が頼まれるようなことはない。


「邪魔をしないでねってことよ。海斗、大事な全国模試が近いから、今大事な時期なの」


「別に邪魔なんかしたことないけど」


「忘れたの?」と母親がわずかに首を横に傾けた。


「ほら。前に璃々乃ちゃんが遊びに来て、ちょっともめたじゃない。話し声がうるさいって」


(そういえば、そんなこともあったな)と陸斗が視線を落とした。


二ヶ月くらい前に、付き合い始めたばかりの璃々乃が、家に遊びに来たことがあった。


その時二人でテレビゲームをして盛り上がっていたのだが、ちょうど海斗が試験前でピリピリしていたこともあり、うるさいから出て行ってほしいと、わざわざ陸斗の部屋まで苦情を言いに来た。


陸斗と海斗の部屋は、廊下を挟んで向かい合うように配置されているのだが、防音設備なんてものが整っているわけもなく、話し声が全て駄々もれになってしまう。


静かにするから、出て行く必要はないだろうと、陸斗が訴えたが気が散るからと海斗は、自分の意見を曲げなかった。


母親からも家庭教師の先生が来ているからお願いとせがまれ、璃々乃も邪魔したら悪いから、外に行こうと言ってくれたので、仕方なく家を出た。


家を出てすぐ「ごめん」と謝ると、璃々乃は「全然いいよ」と笑ってくれた。


「私は一人っ子だから、兄弟がいる陸斗が羨ましい」


陸斗は「出来のいい弟を持つと、苦労するよ」と頭をかいた。


「でも仲良さそうだったじゃん」


「あれのどこが」と目を丸くする。


「だって・・・」璃々乃が振り返った。


「お兄ちゃんの彼女が来てるの知ってて、自分から出て行ってほしいってはっきり言いに来たんだよ。よっぽどお兄ちゃんのこと信頼してないと、言いに来れないよ」


「そうかな・・・」


陸斗は首を傾げた。


「そうだよ。私にもしお姉ちゃんがいて、同じ場面になったら絶対我慢すると思う。海斗君は陸斗のことを信頼してるから、あれだけはっきりものが言えたんだと思う」


そしてフッと目元を綻ばせた璃々乃は、「そんな陸斗の彼女である私も信頼されてるのかな」と微笑んだ。


その顔を見ながら陸斗は、璃々乃と付き合って本当に良かったと心の底から思った。


それなのに、さっきはあんなつまらないことで、璃々乃を傷つけてしまった。


すぐに謝って仲直りをしなければ・・・。


そう思い立った陸斗は、階段を登りながら、璃々乃に電話をかけた。


後ろから「ねえ。わかった?お願いね!」と母親の声が聞こえた。


自室の扉を閉め、スマホを耳にあてるが、なかなかつながらない。


そのうちに留守番電話になってしまったので、陸斗は仕方なく「さっきは悪かった。一度話したい」とメッセージを残した。


まだ怒っているのだろうか。


陸斗がスマホの画面に目を落としていると、海斗の部屋からうめき声が聞こえた。


その声が気になった陸斗は、部屋を出て、すぐ向かいにある海斗の部屋をノックした。


「海斗。入るぞ」


扉を開け、中をのぞくと勉強机の前に座った海斗が頭を抱えている項垂れている。


「どうした?」


そう声をかけると海斗はこちらを振り返った。


「あっお兄ちゃん、おかえり。高校も短縮になったんだね」


海斗は疲れた顔で、微笑んだ。


「さっき帰ってきた。それよりなんか声が聞こえたけど、大丈夫か?」


「ごめん。ちょっとここの数式につまづいて」


海斗が問題集に、視線を向ける。


よく見ると机の上に、分厚い教科書や参考書などが、所狭しと並べられていた。


陸斗が学校で使っていたものとは、厚みも分量も倍近くありそうだ。


「模試が近いって母さんが言ってた。来週新しい家庭教師も来るって」


「そうなんだ」と海斗が苦笑いを浮かべた。


「僕は別に家庭教師はいらないって言ったんだけど、友達のお母さんから勧められた、いい先生がいるからって、無理矢理・・・」


「母さんは、心配性だからな」


陸斗が鼻で笑う。


「まあ、それだけ海斗には期待してるってことだろ」


「プレッシャーだなぁ」


椅子の背もたれにもたれた海斗が、大きく伸びをした。


「父さんが死んで、母さんも俺達を守ろうと必死なんだ。特に海斗は頭がいいから、将来立派になってほしいって、思ってるだろうな」


「お母さんには感謝してるから、その気持ちには答えてあげたいと思うけど、たまに息がつまる」


海斗が首に手をやって、舌を出した。


「期待されてない俺からしたら、少し羨ましいけどな」


「僕は自由にしてるお兄ちゃんが、羨ましいよ」


目を合わせた二人から、自然と笑みがこぼれた。


「まああんまり無理するなよ。気分転換したかったら、またゲーム貸してやる」


「ありがとう」


海斗が姿勢を戻したので、陸斗は部屋を出て、静かに扉を閉めた。


夜が明けると、昨日の荒天がウソのように、青々とした透き通るような空が広がっていた。


そんなすっきりした青空とは裏腹に、陸斗は鬱々とした気分で家を出た。


結局あの後、璃々乃からの連絡はなかった。


電話やメールを送ったが、何の音沙汰もない。


こちらが謝っているのに、それに対して何の返答もないのは、あまりに冷たすぎるのではないか。


まだ怒っているのかもしれないが、そうだとしても、何かしらの連絡をくれないと、こっちとしても対処のしようがない。


付き合い始めた頃から、少し頑固なところがあるのはわかっていたが、ここまで意固地になられるとは思ってもみなかった。


とにかく学校に着いたら、璃々乃を探して話をしなければと、自然と足が速くなった。


教室にカバンを置いた陸斗は、すぐに隣の四組に向かい、璃々乃を探した。


しかし肝心の璃々乃の姿が、見当たらない。


普段は陸斗より早く来ていることが多く、めったに遅刻しない璃々乃にして珍しいなと、思っていると、後ろから声をかけられた。


「陸斗、おはよう!」


驚いて振り返ると、交塚桜乃が手を振りながら、こっちに向かって駆けて来るのが見えた。


ちょうど桜乃とも話したいと思っていた陸斗は、手を振り返した。


すると桜乃は驚きの行動に出た。


嬉しそうに走り寄ってきた桜乃は、勢いを殺すことなく、そのまま陸斗に抱きついてきたのだ。


「陸斗!会いたかった!」


首に手を回した桜乃の金髪が、目の前で揺れる。


周りにいた生徒達は、一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに見て見ぬふりをした。


「ちょっちょっとなんだよ!」慌てて桜乃の身体を押し返す。


「あっごめん。つい嬉しくて」


心臓が今にも飛び出しそうなほど、大きく脈打っている。


璃々乃の友達として、何度か話をしたことがあったが、こんなことをされる関係ではない。


「なっ何考えてんだ」


顔中が焼けるように熱い。


「陸斗。顔真っ赤になってる!可愛いー」と桜乃が頬に手をのばす。


とっさに、その手を払う。


「いい加減にしろ!」


陸斗の叫び声に、周りにいた生徒達が一斉に顔を向けた。


「何?喧嘩?」「朝からやめろよ」


好奇の目を向ける生徒や、迷惑そうに顔をしかめる生徒が、目に入る。


払われた手を庇うように、胸の前で握った桜乃が、不安そうな顔で「陸斗、どうしたの」と言った。


「どうしたって。こんなことしてるから、雄太に疑われるんだろ」


今にも泣き出しそうな顔の桜乃が、首を傾げた。


「雄太って誰?」


陸斗は自分の耳を疑った。


「だから、桜乃の―――」


ちょうどその時、登校してきた雄太が五組の教室へ入っていくのが見えた。


「雄太!」


呼び止められた雄太は、足を止めて陸斗の方を振り返ると、めんどくさそうに片手を上げた。


「なんだよ。何か用か?」


「いや、桜乃が―――」


目の前にいる桜乃を、怪訝な表情で見た雄太は「どうも」と軽く頭を下げた。


他人行儀なその態度に、陸斗は目を白黒させる。


雄太と桜乃も、喧嘩しているのか。


「二人も喧嘩を?」


「ハッ喧嘩?・・・あーそういうこと」


やれやれと肩をすくめた雄太が、「朝から勘弁してくれよ」と苦笑した。


「原因はなんだよ。俺が仲裁に入ってやろうか。こんなところでカップルの喧嘩を見せつけるな。ほら、みんなも迷惑してるぞ」


雄太が、横目で聞き耳を立てている生徒達を示した。


「さっきから何言ってるんだよ。恋人同士って誰と誰が?」


「ハアー。お前と桜乃ちゃんに決まってるだろう」


目を見開いた陸斗は、息を飲む。


「陸斗・・・お前大丈夫か?」


「違う・・・」


「ん?」


雄太が訝しげな表情を浮かべる。


「俺は桜乃とはつきあってない。俺がつきあってるのは璃々乃だ。桜乃とつきあってるのは、雄太だろ」


目を丸くした、桜乃が口元を手で覆い隠した。


その隣で雄太が、ポカンと口を開けている


「半年くらい前に、雄太から告ってつきあい始めたって、幸せそうに話してたじゃん。忘れたのか?」


今にも泣き出しそうな顔で、桜乃が寂しそうにうつむいた。


とても演技をしているようには見えないが、事実なのだからしょうがない。


「それに昨日、桜乃ちゃんが別の男とデートしてたって、俺に相談してきただろう。璃々乃に聞いてほしいってお前が言ったんだろ」


「・・・そういうことか」と雄太が首を小さく縦に振った。


「それでお前ら喧嘩してるわけだ。陸斗・・・。お前の気持ちもわからないことはないが、つきあってないなんて、いくらなんでもひどいぞ」


「桜乃ちゃんの気持ち考えろよ」と軽蔑的な眼差しを向ける。


「雄太こそ何言ってんだ!昨日のこと忘れたのかよ。お前に頼まれたから、璃々乃に話して、そしたら言い争いになって―――」


「あのさ・・・璃々乃って誰だよ!」


憤った雄太が、少し声を荒げた。


雄太の言葉を、すぐには理解できなかった。


「雄太、なんて―――」


「だから、そんな名前の女子は、この学年にはいないって言ってんだよ!」


全身から血の気が引いた。


「他の学年とか別の学校の女子か?てことはお前浮気してたのかよ。最低だな」


「違う!」


激しく首を横に振る。


「璃々乃だよ!四組の越川璃々乃だ!なぁ桜乃。お前ら友達だっただろ。二人で買い物とかしょっちゅう出かけたよな」


必死の形相で詰め寄ると、桜乃は強張った顔で「知らない」と身を引いた。


「桜乃まで何言ってんだよ・・・」


「知ってるよな」と三人が言い争っているうちに、人だかりを作っていた同級生達の方を振り返るが、皆一様に不思議そうな表情を浮かべただけで、璃々乃のことを知ってる生徒は一人もいなかった。


「そんな・・・なんで」


その時、陸斗の肩に何かがぶつかった。


顔を向けると、うつむいた桜乃が何も言わず、教室に入っていくところだった。


すれ違う直前、桜乃の目の端に光るものが見えた気がした。


桜乃の後を何人かの女子生徒が、追いかける。


「サイテー」「ひどっ」「今泣いてたよな」


周りを囲む野次馬根性の生徒達が、口々に小声で陸斗を非難する。


「あーあ、俺知らねえ」と雄太が踵を返し教室へ戻ってしまう。


ちょうどその時、始業のチャイムが鳴り響いた。


チャイムを合図に、残っていた生徒達もそれぞれの教室へ足を向ける。


真っ青な顔の陸斗はその場から一歩も動くことができなかった。


「梅嶋、始めるぞ」


担任が手招きするが、陸斗の目には、何も写っていなかった。


<第2話へつづく>

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小説「タイトル未定」 小説家 川井利彦 @toshi0228

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