9. 白昼の保健室
あれから、文化祭とか考査とか――。目まぐるしく高校生活を送り、しかもあいりは今までと同じだったから、私は残された日常を噛みしめていた。けれど、一日一日、朝を迎える度に「終わり」の足音は大きくなってきている。
「じゃあテスト返却します。青木君から取りに来てね」
そこそこ解けた気はするんだけど。でも平均点下がったって噂だし、どうなんだろう。
そういえば、まーくんの誕生日の日付、聞いていなかったっけ。やばいかな。そんなふうにぼんやりしていたら、丸めた解答用紙でポンと頭を叩かれた。そんなことをするのはあいりしかいない。
「今日、うち来て」
「うっ……」
耳元で妖しく囁かれた途端、背筋が凍った。金縛りのような、そんな硬直。駄目だ、今のこの雰囲気は「綾目」だ。蝋人形の目を見られるわけ、ない。どうしよう。
変わらぬ毎日の象徴であった教室が、みるみると異空間へ変わっていくような錯覚に陥る。
「……おーい。おーい、桐野さん? つっかえてるわよー」
「あ、芹奈、先生に呼ばれてる。早く行きなよ」
あいりの声色が一変した。でもやっぱり、顔は向けられなかった。よろめきながらもなんとか教卓までたどり着き、答案を受け取る。点数なんて気にすることができない。ここで赤点でも取っていれば、笑えたのかもしれなかった。
ああ嫌だな、「終わり」が駆け寄ってきたんだ。頭がズキズキと痛くなる。もうなんか、割れそうだ。このままばったり倒れたっておかしくない。
そう思うのだけれど、首から下はいたって健常である。
「せりりん、体調悪そうだよ。保健室行こう? あたし連れてくから」
気の利くなっちゃんが、心配そうに私に言う。
「え。いいよ、そんな…………」
「だーめっ! ふらふらしてるんだから。先生、桐野さんを保健室に連れてきます」
責任感の強い彼女に従って、一階へと向かう。教室よりも廊下の方が、風が通るからかひんやりしている。それだけでも、頭痛が和らいだかもしれない。
私の手を引く彼女の手は、白くて柔らかくて、折れそうだった。
しかし、その手が拳を作って保健室の扉をノックしても、返事はなかった。
「あれ? 誰もいないのか……。ソファだけでも貸してもらうしかないね。失礼しまーす」
嗅覚って不思議だ。消毒液の香りで満たされているこの部屋は、日常空間でも異空間でもなく――ただただ、保健室だった。どちらでもないこの場所は、思いの外に安堵を与えてくれた。
私がソファに座ると、なっちゃんも隣に腰掛ける。中のスプリングはあまりきつくなくて、すごく好きな座り心地だった。
「せりりん心配だし、あたしもここで少し過ごそっと。いい?」
今一人になったら、この落ち着きも消え去ってしまう気がした。「一緒にいてほしいな」と返事をする。
目を閉じて、深呼吸をした。アルコールの香りは鼻孔を通り過ぎて胸に取り込まれる。それから、大丈夫、の言葉を三度、口の中で転がした。いつまでも子供みたくて馬鹿みたいだけれど、私はこうやって自分をなだめることがある。
にわかに、ぱちゃ、と蛇口から水が滴った。
目を開けると、なっちゃんと目が合う。今年度の養護教諭って、ちょっと大雑把なのかしら。二人で、困ったように頬を緩ませる。
私が流しへ向かおうとすると、それよりも先になっちゃんがすたすたと行ってしまった。それから、蛇口を締める音がやけに耳に届いた。なっちゃんはそっと口を開く。風に吹かれるカーテンが、彼女の視線の先にあった。
「……あいりちゃんに何か言われてたけど、大丈夫?」
「あ、うん。あいりが悪いとかじゃなくて。私に心の準備が出来てなかっただけ」
とりあえず、嘘はついていない。なっちゃんは神妙そうにしていた。
「……そっか。二人ってすごく仲いいからさ、急にどうしたんだろうと思ったの」
「やっぱり、周りから見てもそう思う? 仲いいって」
「そりゃあそうでしょ。ずっとおそろいのカチューシャしてるんだから」
なっちゃんは、私の頭上を指さした。
「あー、これかぁ。ちょっと子供っぽいかなって思ったから外そうとしたんだけど、あいりが怒っちゃったんだよ」
なっちゃんは吹き出した。
「何それ! 束縛激しいなぁ、あいりちゃん。じゃあ、外さないんじゃなくて、外せないのね」
「そうそう」
談笑していると気が紛れる。なっちゃんは話し上手なんだろう。
「……って、ごめん。体調悪い人の横でうるさくしちゃった。あたし、そろそろ戻るね。テストまだ受け取ってないし」
ありがとう、となっちゃんに告げると、ちゃんと休めよぉ? とおどけた返答が飛び出た。彼女がその扉を閉じるまで、小さく手を振り続ける。
うう。うめきながら、ソファにどっかりと寄りかかる。いつの日かのあいりのように、きっとおじさんっぽい体勢だろう。
次の授業は、戻ろう。あいりが殺人を犯して蝋人形になる未来は変えられないし、選べるのは、それが世間に露呈するかしないか、だ。私が今メンタルをやられたところで、何も起きやしない。
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