8. 夕影と追憶と
「じゃあ気をつけて帰ってね。生贄の件なんだけど……ちょっと思いついたことがあるから、芹奈は生贄探しはしなくていいよ」
うん、と小さくうなずいて、靴を履く。
「あいり、また明日」
玄関の引き戸が閉まった音を聞いて、歩き始める。庭にはアヤメの花が咲き乱れていた。
実を言うと、悪寒がしていた。綾目あいりという器の中に、「あいり」と「綾目」という二人分の人格が収まっているようで、不気味だったから。
坂を下りながら、私は思う。『儀式』の本当の目的は一回目にあるのではなく、二回目にこそあるのではないだろうか。二回目を経験する――殺人を犯すことで、子どもをあの蝋人形に仕立てている気がする。きっと二回目の直前だから、あいりは二重人格的なのだ。
「はあ」
深いため息とともに、右手を夕日に透かす。指が真っ赤に彩られて、そのまま溶けていきそうだった。
しばらく眺めていると、手首の痣が目に止まる。
「……もう、だいぶ薄いなぁ」
誰も私に答えることはないけれど、それでいい。女々しいことに、私は回顧が好きである。
中学校に入学したばかりのこと。
まだ鮮明に覚えている。当時の私は、痣があることでひどくからかわれていた。今でこそ色素は薄いが、以前は結構青黒かったのである。
「なんでそんなに手を洗うの?」
ある日、あいりに質問された。どうしてそんな話になるのかというと、私が執拗に手を洗い続けていたからだ。家でも学校でも、とにかく、手洗い場があればどこででも。潔癖症でもないのに手をボロボロにしていて、さぞ奇妙だったろう。
理由はあった――洗っている最中は、泡や水流で痣が隠れる。そうしていると、自分も「普通」になった気でいられたのだ。泡を流したら痣も一緒に流れていくのではないか、とすら思えていたのだ。
でも、こんなこと言ったって笑われるだけ。私が口を閉じていると、
「まあいいや。これ、あげる」
淡い紫の、ガラス瓶を渡された。中身は乳白色で埋まっていて……それはハンドクリームだった。
「手荒れ、治るといいね」
そういった優しさが、今後彼女から失われると思うと、虚しい。
「せりりーん! またねー!!」
「えっ!? じゃ、じゃあね!?」
自転車で坂を駆け抜けるなっちゃんに急に挨拶されて、我に返る。
あのガラス瓶、まだ捨ててないはずだ。どこにしまったっけ――。
今の彼女が喪失してしまうとわかってから藻掻く私は、浅はかだ。「いつもどおり」を「当たり前」と思って、ないがしろにしてきたのに、いざ崩れそうになると縋る。所詮、愚劣な人間は、愚劣に生きることしか出来ないのだ。
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