酒と聖書

 たっぷりと外湯めぐりを満喫し、旅館の豪華な夕飯を楽しんだ俺たちは、部屋でゆっくり最後の夜を過ごしていた。


 文字通り川の字に敷いてもらった布団は、俺のアパートの万年布団とは比べ物にならない。ふかふかで寝心地抜群だ。

 この三日、店長の手のひらで転がされていたような複雑な気分だが、それでもやっぱり老舗の高級温泉旅館は露天風呂も食事も申し分ない。


 幸せ気分で布団に寝転がった俺は、すぐにうとうとしてしまった。


 どれくらい眠っていただろう……ふと、眠りが浅くなって薄っすら目を開けると、綺麗な丸い月を見上げて日本酒を楽しんでいる店長が視界に入った。


 アレクは店長の横で籐の椅子に座り、何か読んでいる。聖書かな。


 二人の姿が月光に浮かび上がり、まるで一枚の絵のようだ。

 まだ半分夢の中にいるような感覚で、俺はぼんやりと二人を眺めていた。


 ふいにアレクが口を開く。


「あの時、橘が無抵抗なのは予想してただろう? 都築が止めなかったら、どうするつもりだったんだ?」


 聖書から視線を上げることなく問いかけるアレク。


「都築くんなら、絶対に止めるよ」


 小さく笑みを零した店長は、こくりと日本酒を喉へ流し込んだ。


「ずいぶん信用してるんだな」


 アレクの言葉に、店長はほんの少し驚いたように目を瞬かせた。


「信用? 僕が、都築くんを? ――…いや、僕は誰のことも信用しない。都築くんは単に行動を読みやすいだけだよ。単純だからね」


「はははっ、そういう事にしておくか……にしても、尾張が何か隠してるのは気づいたが、どこまでお前の肩をもっていいのか分からず、ほとんど傍観してるだけになっちまった。あげく、俺は都築を取り押さえたり尾張を羽交い絞めにしたり……道化もいいとこだ。尾張も人が悪いぞ……最初から鏡のことを教えておいてくれれば、俺だってもう少し上手く立ち回れたのに……」


 恨みがましく愚痴をこぼすアレクだが、決して責めているようには聞こえない。それどころか、ちょっと楽しんでいるようだ。


「僕は誰のことも信用しないって言ってるだろ? アレクみたいな唐変木とうへんぼく、最初から全部知ってたら、下手な演技で橘くんにすぐ見抜かれちゃうよ」


 ぷいっと顔を逸らした店長は、再び月を見上げた。

 しばらくの沈黙の後、店長は月から視線を逸らすことなく独り言のようにぽつりと呟く。


「橘くんのこと、どう思う?」


「ずいぶん頑張ってるんじゃないか? まだ十六なのに、ストイック過ぎて心配になるくらいだぞ」


「そうだね」


「でも都築がいるからな。橘にとっては、都築の存在がいいガス抜きでもあり、成長にも繋がると思う」


「……うん、そうだね」


 店長はゆっくりと日本酒を口に運んだ。


「僕にも、あんな風に叱ってくれる人がいたら……こんなにずるくて汚い『大人』にはならなかったかも……橘くんが羨ましいよ」


 自嘲気味に笑う店長。

 アレクはパタンと聖書を閉じた。


「そうだな。俺が見たところ、尾張は狡くて汚くて――…実は傷つきやすく、臆病で、寂しがり屋だ」


「…………いいところが一つもないな」


 ジト目でアレクを睨む店長は、不満げに軽く唇を尖らした。


「そういう奴、俺は好きだぞ」


 ニカッと笑うアレクに、店長は何も答えなかった。

 俺は目を閉じ、そのまま再び眠りに落ちた。




☆*:;;;:**:;;;:*☆*:;;☆*:;;;:**:;;;:*☆




 翌朝――…。

 女将と番頭さん、そしてたくさんの仲居さん達が旅館の玄関先にずらりと並んでのお見送りは壮観だった。

 旅館の前に車を移動してきてくれたアレクに礼を言って、俺と店長は乗り込んだ。


 来た時と同様、アレクは運転席、俺は助手席、そして店長は後部座席。

 シートベルトを引っ張り出してカチャリと止め、さて出発! と思ったが、いっこうに車は発進しない。


「アレク? どうかしたのか?」


「いや、……えーっと……尾張、いいのか?」


 アレクが目を泳がせつつ、もの凄く言いにくそうにバックミラー越しに店長へ問いかけた。

 店長は軽く肩を竦めて苦笑する。


「う~~~ん、……いいんじゃない?」


「何なんですかっ!? 俺一人だけ状況が分かってないとか! 仲間外れですか!?」


 二人を交互に睨む。

 店長は涼しい表情かおだが、アレクはちょっぴり気まずそうにポリポリと頬を掻いた。


「都築の膝の上に、だな……」


「ん? 俺の膝の上???」


 俺は自分の膝へと視線を落とす。

 が、特に何も――…っ!? ま、まさかっ! 俺には見えない霊的な何かが!?


 青ざめた俺に、後部座席から店長が説明してくれる。


「都築くんの膝の上に、お座敷様が座ってらっしゃるんだよ」


 えぇぇええぇぇ~~~~~~~~~っ!?


「な、な、なんで……っ!? 俺の膝に――…ッ……!?」


「気に入られちゃったんじゃない?」


「お座敷様を解放したのは橘と十和子さんなのに、どうして俺が気に入られるんですかっ!?」


「そんなの、僕に聞かれても知らないよ」


 店長はもう会話に飽きたとばかりに小さく欠伸をし、目を閉じてしまった。


「お、俺……いったい、どうしたら……?」


 救いを求めるようにアレクを見ても、どうしようもないと首を振られてしまう。


 車はゆっくりと滑るように走り出した。

 運転席にアレク、後部座席に店長、

 そして、助手席に俺とお座敷様を乗せて――…。




☆*:;;;:**:;;;:*☆*:;;☆*:;;;:**:;;;:*☆




「ありがとう、ござい……ましたっ! ……はぁ~~~っ」


 ランチタイム最後の客を何とか笑顔で送り出した俺は、大きく息を吐き、よろよろとカウンターの椅子に腰を下ろした。


「なんだ、これ……店長、どうなってるんですか? 今日のお客さん、いつもの三倍はいましたよ」


 営業開始前から店の前には見たこともないほどの大行列ができ、もの凄いお客様の数に文字通り『てんてこ舞い』だった。もう舞い過ぎて、目が回っている。


「本当にすごかったね……二日分として用意してた食材、空っぽだよ。お疲れ様」


 カウンター奥の厨房から苦笑しつつ出てきた店長は、レモン水の入ったグラスを俺の前に置いてくれた。

 ぐびぐびーっと一気に飲み干し、喉を潤した俺は盛大に息を吐く。


「はぁ~~~、どっかのレビューサイトでオススメ店として紹介されたのかな」


「いや、原因はお座敷様だと思うよ」


「――…は???」


「お座敷様、ずっとそこに座ってらっしゃるから……」


 店長が指さす方を向くも、俺には何も見えない。

 そこは店内でも一番陽当たりのいい場所で、観葉植物の横に小さな可愛い椅子がちょこんと置いてあった。

 カフェバーの雰囲気を壊さないよう、ちょっと雰囲気あるオサレなテディベアが座らせてある。


 店長、いつの間にあんなの用意したんだ?


「な、な、なんでっ!?」


「うちを気に入って下さったみたいだね。さすが、商売繁盛の効果はすごいなぁ……食材の発注増やさないと……!」


 うきうき上機嫌の店長……俺はバタン! とカウンターに突っ伏した。


 お座敷様がうちに飽きて、どこか他所よそに行かれるまで……ずっとこの状態、なのか!?


「もう、働き過ぎでお腹ペコペコですっ! 店長、今日のお昼ご飯は何ですかっ!?」


 涙目の俺に、店長は胸の前で両手を合わせて満面の笑みで答えた。


「ごめーん! ランチタイムで、まかない用の食材も全部使っちゃった……!」


「えぇぇぇぇぇええええええ~~~~~~っ!?」


 俺は『絶望』という名の奈落へ突き落されたのだった――…。

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